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山羊座新月

遅まきながら、今年の抱負のようなもの。 それは「脱・しなければならない」 お気付きの方も多いと思うが、私のブログ記事には「しなければならない」の登場頻度が高い。 放っておくと自然とそうなってしまう。 それを脱し、卒業しよう、というのが今年の抱負。 去年色々あって、状況がとことん極まると「しなければならない」が致命的な自縄自縛になることを学んだ。 この考え方だと沢山の〈禁止〉が生まれるが、それは自分にも向かうが他人にも向かう。 実際にはすべての人がそれぞれの人生を、そうあるように生きている。 どれ一つをとっても正解はないし、だから当然不正解もない。 「しなければならない」というのは思い込みで、その思い込みの外装を引っ剥がすと、「そうしたい」「そうありたい」という本音が出てくる。 そしてそれはとても強い力を持っているから、「しなければならない」なんかでは梃子でも動かない。 だったら最初からありのままでいたら良いのだが、そうまで開き直ることは子供には許されても大人にはなかなか難しい。 「しなければならない」というのは、本音を覆い隠すためのコーティングなのかもしれない。 本当の所はもっと単純で素朴なのだ。 霊的知識なるものを語るとなると、「しなければならない」式になりがちである。 しかしこれからは(しばらく前からそうしているけれど)、それとは別の伝え方が出来たら良いと思う。 自分が思ったこと、感じたこと、したことの中にヒントがある…なんて言うと非常におこがましいけれど、誰の言葉や行いの中にもヒントがあるというのと同じ意味合いで、何かが伝えられたら嬉しい。 …なんてことを言っても「しなければならない」とうっかり書くことも必ずあると思うので、そんな時は笑って見逃して下さい。 今日は今年最初の新月。 今年もヒーリングをよろしくお願いします。 【スケジュール】 1月11日(木)山羊座新月 1月26日(金)牡牛座満月 【メニュー】 ①カウンセリング 10000円 ②ヒーリング 10000円 ③リモートカウンセリング 7000円 ④遠隔ヒーリング(お布施) ヒーリングアクセサリー「プレローマ」 36000円 【お問い合わせ下さい】 ①LINE:atelierkoshiki ② microcosmo.healing@gmail.com ③090-9309-1217(留守電にメッセージを残...

「好き」の力

  浦沢直樹の『PLUTO』という漫画がある。 これは大変な傑作で、何度も読み返している。 最近Netflixでアニメ化されたので観たのだが、これもとても良かった。 ある男が子供を人質に取り、ロボット刑事が解決に当たる。 その時、刑事が子供に語りかける言葉。 「一番大好きな人のことを考えるんだ。そうすれば勇気が湧く」 子供は目を瞑って念じ始める。 「お母さん、お父さん…」 かくして子供は、刑事による犯人狙撃の妨げとなる動きを止めることが出来、事件は解決した。 私はこの場面ではらはらと泣いた。 その後の場面では毎回、大号泣なのだが。 もし自分がこの場面で、子供の立場だったら…と考えると、 「一番大好きな人のことを考えるんだ。そうすれば勇気が湧く」 「え…。いません…」 と呆然と答えただろうなと思う。 死活問題に触れるこの隔たり。 哺乳類の一員として、子供が親を思慕することは本来自然のことなのだ。 人生の少なくとも前半は、多分ここでどう答えるかで決まるのだろう。 勿論、後半生は(それがいつ始まるにせよ)自分の努力次第でかなりの程度変えていくことが出来る。 叱られないとか甘やかしてくれるとかではなくて、親を「好き」と感じる時、子供の心にはどんな不思議な働きが生じているのだろうかと思う。 「好き」は子供の体内で次第に温まり、力を強めていき、やがて他の多くのものに向かって、外に向かって、放射されていくことになる。 好きなものを追い求められる人生と、諦めて無表情に生きる人生と。 「好き」の力の強さこそは、幸せを引き寄せる最大の要因となるだろう。 注意深く子供を観察しながら、私もまたそれを学ぼうとしている。 明日は令和六年最初の新月です。 今年も新月満月(その他諸々)ヒーリングを、よろしくお願いします。 【スケジュール】 1月11日(木)山羊座新月 1月26日(金)牡牛座満月 【メニュー】 ①カウンセリング 10000円 ②ヒーリング 10000円 ③リモートカウンセリング 7000円 ④遠隔ヒーリング(お布施→ 詳しくは ) ヒーリングアクセサリー「プレローマ」 36000円 【お問い合わせ下さい】 ①LINE:atelierkoshiki ② microcosmo.healing@gmail.com ③090-9309-1217(留守電にメッセージを残して下さい) ー...

「生きている幸せ」を学ぶ

  しばらく前から休み休み読んでいた『赤毛のアン』の最初の巻を、お正月中に読み終わった。 特に前半が好きである。 アンの瑞々しい感性に何度も声を上げて笑い、心の洗われる思いがした。 「なんて素晴らしい日でしょうね。こんな日に生きているというだけで幸せじゃないこと? それを逃すんですもの、まだ生まれていない人がかわいそうになっちゃうわ。むろん、その人たちにだって素敵な日は巡ってくるでしょうけれど、でも今日は二度と来ないんですもの。」 こんな思いで毎日毎日を生きられたらいいと思う。 健全に育った場合、子供時代に人間はこんなふうに感じるものなのだろうか。 一泊の予定の子供が二泊した。 夜、布団の中でお話をする。 最近はアンパンマンと機関車トーマスに夢中なので、私も新たに仕入れた知識を駆使してお話をしてあげる。 暗闇の中でまどかは私に顔を近付け、目を輝かせて聞き入っている。 (ほんとに幸せなんだね、生きていることが…) と思う。 寸前まで笑顔で、ふと気付くと寝息を立てている。 自分もこんなふうだったのだろうか、と思う。 それは分からないが、この30年くらいは絶対にそうではなかった。 最近、私は子供の心を学び直している。 少女時代のアンのように弾けるほどにではないが、静かな幸せを毎日感じている。 でもそれは「幸せになったから」ではなく「幸せに気付くように努力するようになったから」だと、自分では思っている。 幸せは誰かがくれるものではなく、見出すものであり、または聞こうとすると聞こえる音のようなものなのだ。 鳥の声に似ている。 鳥は割といつも鳴いているのだけれど、考え事や不満に夢中になっていると気付かない。 幸せも、そんなものではないだろうか。

お正月の遊び

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  お正月の話題の鮮度は今日がぎりぎりという所。 普段、つつましく暮らしている私でも、お正月は、ぱあっと華やかにしたいと思う。 おせちは抜かりなく作り、梅の枝を活け、お菓子も沢山用意する。 お酒は皆様が貢いで下さるので買う必要がない。 年明けの2,3日前にまだ蕾の小さな梅の枝を選び、日向に置く。 年内には蕾のままで、元旦の光の中で開花してくれると嬉しい。 それから数日かけて一つまた一つと花が咲いていく移ろいは、新年の慶びが重なっていくのを見るようで愛らしい。 (何だか枕草子のような物言いである。) 昔々、私が子供の頃には、お正月に祖母の家で、姉と三人で花札をした。 花札は祖母が私と姉に教えてくれた遊びだった。 1円玉を掛札にして、一日中遊んでいたものである。 子供の頃の記憶というのは根強いもので、お正月に炬燵を囲んで延々と花札が出来たら最高だろうなという気がしてきた。 祖父の家には立派な碁盤があったことも思い出す。 囲碁は習得しないままだったが… 要するに、何にせよ、子供であれ大人であれ、遊び道具を持っていた。 今年の私はプレイステーション4だった訳だが。 古代中東の遺跡に、最古の双六(すごろく)があるという話を聞いた時、ただならぬ感銘を受けたものだった。 5000年もの前から、ずっと人は、日々の労働の傍ら遊んでいたのである。 当たり前と言えば当たり前のことだが、仕事と同じだけの歴史を遊びが持っているという事実は、とても意義深いことと思われた。 仕事と遊びはきっと、同じ「人間の営み」の表裏なのだろう。 あるいはそれは天秤に喩えても良いかもしれない。 片方があるから、もう片方がある。 お正月は大人も仕事をしていない。 そんな珍しい時間の中で、花札や碁盤がとりわけ子供心に何か強く訴えるものがあったのもかもしれない。 何事につけ、 「どっちも大事」 。 これが最近の私の信念。 今年は、遊ぼうと考えている。 祖母の形見。久しぶりに取り出してみた。