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【価格変更のお知らせ】28通目の手紙

遠隔ヒーリングをお布施制にしてから2年経ちました。 そして対面ヒーリングとカウンセリングもお布施制にして、1年余りが経ちました。 あの時、お金に関して、本当に勇気のある決断をしたと思います。 私は 「お金<真心」 の考えで、お布施にしたのでした。 それは決して投げ銭ではなく、誠意に基づく交換であるという私の考えに賛同して下さる皆様に、支えてきて頂きました。 この世界の中で、このような方法によって生活が続いてきたのは本当に凄いことだったと思いますし、それを可能にしてくださった皆様に心から御礼を申し上げます。 いま引っ越しの中で色々なことを考え直しています。 家の中だけでなく、頭の中も整理しています。 正直に言いますと、引っ越しを控え今の私は難しい状況にあります。 人生の新しいステージが始まろうとする時の、陣痛の傷みのようなものかもしれません。 過去を参照し、どうしてこうなったのだろうと考えると、自分は自分の能力と仕事を十分に大事にしてこなかったのではないか、という事実に気が付きました。 もちろん私はずっと自分の能力にプライドを持ってきましたし、この仕事が好きです。 しかしその 仕事の喜びという「灯火」が消えないように守る努力 をしてこなかったと思うのです。 お金に関しては、「お金<真心」の考えが変わることはありませんが、完全お布施制という選択によって、浮世離れしすぎてしまったのだと思います。 皆様には私のこの哲学が歓迎されましたが、その外側にいる人たち、つまり世の中一般との距離を開けすぎてしまいました。 「あまり神々しくなりすぎないように。でないと、この世で使い物にならなくなる」 (オーラソーマ創始者ヴィッキー・ウォール) という一節を思い出しました。 まさに私のことです。 自分の信じる美学に従って生きることは素晴らしいことですが、いつも必ずそれが通用するとは限らないし、そうである以上は柔軟に適応することが必要だと思える年齢にやっとなったということだと思います。 自らの理想を高めすぎたあまりに生活ができなくなり、その理想からかけ離れた仕事に活路を見出さざるを得なくなるというのは、実に本末転倒な話です。 先日、私が大好きだったレストランが閉店しました。 とても魅力的な、店主の精神性が色濃く投影されたお店で、息子を彼の家まで送り返した帰り道、一人でよく食事したものです。 ...

27通目の手紙 引っ越しに際して学んだこと二つ

生活状況が大きく変わろうとする中で沢山のことを学んでいます。 この家は、大きすぎました。 使わない部屋、有り余る収納… 「自然は真空を嫌う」と言いますが、本当にそのとおりです。 一人で暮らしているというのにどこに部屋にも収納にも何かしらあり、それらはすべて「とりあえずここに入れておくか」という考えによってずるずると増加を続けたのでした。 今この時に及んで腕まくりして片付けを始めると、「どうしてこんなものを取っておいた?」というものの多いことに驚かされます。 身軽になるためには、「まあいいか」の惰性を克服することが必須だったのだということが分かりました。 もう一つの学びは、 形あるものの本質は体験である 、ということです。 すべての絵を次の生活に持っていくことは出来ません。 紙に書いたペン画はいいのですが、キャンパスに描いたものはかさばります。 特に額入りの絵。 これは捨てて良かろう、と思うものは去年末から少しずつ捨ててきました。 だんだん水かさが増していくように… 「これも要らん」と。 ずっと同じ場所に住んでいられるなら、どの絵も捨てる必要がありませんでしたが、今はこの問題に直面する必要があります。 どの絵も、描いた時の状況や心境を覚えています。 だから捨てるのは常に惜しいのですが、それは、絵がなまじ形を持っているばかりに抱いてしまう惜しみなのだと思います。 もし仮にそれが音楽だったら? 「あの時は最高に良い気分だった。良い音を出したものだ」 そして、それは記憶の中にしか残っていないのです。 それで良いのです。 だから絵もそれで良いではないか、と思えるようになりました。 形あるものの本質は体験にあるのだから、と。 これもまた、軽くなっていくための心の技術なのでしょう。 さて昨日、以下のようにお伝えしました。 ・観葉植物、家具、生活雑貨の一部、フォトフレーム、(絵の)額をお譲りしたいです。 ・絵を買って頂きたいです。 早速、お問い合わせ頂き嬉しく思っております。 つらつらと今日の記事を書きましたが、それでもなお捨てるに忍びない絵、そして自分が持っていけないかもしれない絵については、人の手に渡れば嬉しいです。 特に、キャンバスに描いた絵や額入りの絵について、「もったいないから私がもらってやろう」と思って下さる奇特な方がいらしたらお声掛け頂きたいです。 これらの絵に関して...

26通目の手紙 ぎりぎりの所まで行かないと開かない扉をそろそろ開ける話

新しい住まいと、新生活を支えるのに足るだけの仕事を探しています。 どちらも初めてのことです。 暗中模索ですが、これまでずっと何とかなってきましたから、これからも何とかなると信じています。 この18年にわたる精神修養の成果を信じて、前に進んでいきたいと思います。 諸々の教えによれば、ここで「助け」が入るはずです。 今まで読んできた沢山の本にそう書いてありました。 ぎりぎりの所まで行くと、扉が開かれるのです。 それはぎりぎりの所まで行かないと開かない扉。 その扉自体はずっと目の前にあって鍵が開いているですが、人間というものは、しなくて良いことはしないで済ませたい生き物です。 ぎりぎりまで行かないと起動しないエネルギーが人生に必要なら、ぎりぎりの所まで連れていくのが運命というものです。 昨日お伝えしたチェロの話もそうですが、いま私は、これまでに自分が纏ってきたプライドや成功体験に基づく惰性の衣を脱ぐ時に当たっているのだと思います。 それはとても居心地の良い衣でした。 これまでを振り返ると、私は自分で物事をはっきりと決めたことがあまりありません。 ヒーリングの力についてもそうです。 確かに、私は、それに先立つ一年くらい前に(26歳の時に)、ヒーリングの仕事を生業にしできたらいいだろうな、というくらいのことは思いましたが、本気で覚悟を決めるというほどのことではありませんでした。 それでもヒーリングの能力は暴力的とも言って良い形で私の中から目覚めました。 それで、大して真面目に望んだわけでもなく、この道に入りました。 だから私は「具体的にビジョンを定めると云々」とか「叶うまで努力し続ける」という説には懐疑的です。 私自身の身に起きたことは、その真逆だったのですからね… そうではなくて、無意識こそが生きている主体であって、自分はその末端の組織に過ぎない気がするのです。 そして無意識が何を望み、どこに向かっているのかは、私には全然分かりません。 この正体不明の無意識に神という名を与えて外なる宇宙に投影し、その力に翻弄されたり、救いを求めたり、あるいは憤ったり、駆け引きしたり… それが、私が内面においてしてきたことだと思います。 「まあ、放っておいても新居は向こうからやってくるし、台所事情もどうにかなるだろう」と思ってこの一年を過ごしてきましたが、いま私に求められている行動はそれでは...

25通目の手紙 出来なすぎてプライドががたがたになった話

5月末に開催されるフルート教室の発表会。 先日、チェロ奏者として初リハーサルに参加しました。 かなり怖い思いをしました。 自分がいかに弾けないかということを痛感させられました。 編成は、フルート奏者の伴奏を、プロのチェンバロ奏者とアマチュアの私が務める、という形になります。 チェンバロの達人のすぐ横で音を出すのは、非常に居心地の悪い体験でした。 最初の音を出した瞬間、「弾けないな、この人」と見抜かれたはずです。 断っておくと、チェンバロ奏者もフルートの講師も優しい方で、私に嫌味や非難の態度を示すことは微塵もなく、優しく指示を出して下さいました。 でも、「これじゃ全然駄目だ」と思わないわけにはいきませんでした。 自分が生徒の立場なら何ともないのですが、出演者を後ろから支えてあげなくてはならない役目を割り振られているにもかかわらず、全く自分にその能力がないことを知るのは辛いことでした。 皆様の発表の機会を残念なものにしたくありません。 でもその役が務まるのだろうか? 帰り道、「降りようかな」と思いました。 翌日は、楽器に触る気になれませんでした。 でも、この機会は与えられたものです。 自分から欲しがったのではなく、思いもかけぬ形で転がり込んできたものです。 リハーサルの帰り道、フルートの先生が「去年演奏を見て、これは弾ける人だ、と思ってお願いしました」と言って下さいました。 宇宙は「出来るでしょう?」と言っているのです。 簡単に出来ることではなく、ヒリヒリしながら頑張れば出来るでしょう、ということを、宇宙はもたらすものです。 それを、受けて立ったわけです。 受けて立った以上はやりきりたいです。 これまでよりももっと真剣に、注意深く練習するようになりました。 そうしたら、具体的な改善方法が見えて来ました。 我流がいけないとは全く思わないのですが、ヒーリング、音楽、絵、小説、料理、私は全てにおいて我流であり、自分の満足と納得感だけを頼りにここまでやってきました。 「そして、その先に行きましょう。今こそ自分を広げる時。そのためにはヒリヒリしなければ」と。 これが宇宙のメッセージなのだと思います。 14組、34曲、ということで量的にも大変ですが、本番当日までに自分自身にも参加者にも満足できる出来に仕上げたいと思っています。 お読み下さりありがとうございました。 ・・・・・・・・...

24通目の手紙 人生に必要な受動性とは

宇宙の導き、というものは常にあります。 そのためには受動的であることが必要なのですが、受動的とはどういうことなのか? 事を起こるに任せ、気に入らないと文句を言う。 これは受動性ではないのです。 単に流されているだけ。責任放棄に過ぎません。 真の受動性とは、事を起こるに任せ、そしてそれを「受けて立つ」ということだと思います。 「来るなら来い、何でも受け止めてやる」という気概とでも言いましょうか。 その時、宇宙が、この人を育てたい、もっと良い所に運んであげたい、という流れを作り出します。 これが宇宙の「導き」であって、それは翻弄されるのとは別のことです。 確かに渦中にあると翻弄されているかのように感じられることがあります。 私自身、過去を振り返ると、翻弄されていると思っている時期が長くありました。 昨日も書きましたが、それもそれで必要な時期です。 学ぶためには無知の段階が必要です。 やがて、これは自分の深い願いが作り出した一連の流れだったのだ、ということが飲み込めるようになってきます。 私は小説を書く人間ですから、小説的に人生を俯瞰する傾向があります。 そうすることで、目の前のことに一喜一憂したり、心を奪われてたりする状態よりも多くのことが見えてくるのです。 小説は「あれがこれに繋がっていたんだ」ということの連続ですし、無駄なエピソードは本来、理想的には、ありません。 「このエピソード、絶対要らないでしょ」という箇所を読んでいる時は、不毛な感じがするものです。 言及されるエピソードはその時点ではどこに繋がるのか分からないのですが、どこかの時点で明確な意味と論理的連続を明らかにします。 それが伏線回収ということです。 そして伏線回収が見事な時、そこにカタルシス(解消による浄化)が生じます。 大掛かりな物語は、伏線を伏線のまま、話を進めます。 人生とはまさに、大掛かりな物語ではないでしょうか。 短編小説ではありません。 だからこそ数多くの伏線が散りばめられており、然るべき着地点に向けて迂回したり時に蛇行したりしながら、そのそれぞれの流れが、同じ方角を指して向かっていきます。 そういうふうに人生を見た時、かつて起きたことは今に繋がっていて、今起きていることは未来に繋がる、ということが得心できます。 この物語を虚心に読むということ。 それが、受動性、という人生の極意なのではない...

23通目の手紙 地下トンネルを掘ったらベルギーに繋がった話

毎日一行の記録をつけています。 印象に残る出来事だけを書くのです。 0個の時もあれば、5つほどのことを書き込む日もあります。 そしておよそ1か月後に、先月のものを見返します。 すると「あれは別にどうということはなかったな」ということと「これは今に続いているな」ということが識別されます。 後者には赤鉛筆でアンダーラインを入れます。 こういうふうにして自分の足取りを確認するのです。 1月22日に、「小説を書き直すべきだ」との心の声が聞こえました。 昔書いた小説が3つあります。 そのことです。 それらの作品は良いインスピレーションから生まれましたが、今の自分はこれを未成熟なものとして満足することが出来ません。 いずれは…と思いつつ、小説を扱うのは非常に面倒くさいことなので、無期限延期していました。 しかし身辺変化が急を告げる今こそ、これを完遂しなければならないと思い、2代前のパソコンからデータを取り出しました。 面倒くさい、面倒くさいと良いながら、とうとう29日に着工しました。 すると不思議なことが起こりました。 語学交換学習のサイトに私はアカウントを持っているのですが、ずっと放置しています。 このサイトでは、例えば日本語を学びたい英語話者が、英語を学びたい日本語話者とコンタクトを取り、お互いに学習を助け合うということが奨励されています。 まあ、語学系出会い系サイトとでも言いましょうか。 (私には不純な動機はありませんぞ) 何しろ放置していたアカウントですから、コンタクトが1年間0件でした。 しかし、小説を書き始めたタイミングで突然、急増しました。2か月で15件。 私のプロフィールははるかな過去に埋もれているはずなのに、どうやってこれらの人たちは私を見つけたのか、不思議です。 しかしこういうことをするのが、宇宙です。 または、無意識、ハイヤーセルフ、神とも言います。 その中の一人は、最初から特別に温かい人柄を感じさせる女性でした。 私は小説を書くのに没頭していて精神的余力がありませんでしたので、返事は日本語で書いてAIに翻訳させて送るだけでした。 別にこのやり取りは続かなくて良いと思っていました。 しかしメールのやり取りが続く内に、この人物が完全に「宇宙と同調して」生きている人だということが分かりました。 兆し、シンクロニシティ、直感、委ねること、善を信じること… 何一つ...

22通目の手紙 「面倒くさい」という呪いが解ける時

心、というお馴染みの言葉を解剖し深く検分してみると、恐ろしく複雑な構造と働きがそこにあることが分かります。 心理学と脳科学はこれを大部分解き明かしていると思うのですが、本当に分かるためには、何と言っても自分で分からないといけません。 例えば掃除を出来ない人はなぜ出来ないのか。 そういう人が一念発起して掃除の習慣を身につけると現実がどう変わるのか。 これは身を以て知るしかないのです。 掃除、と一口に言っても、手を付けやすい簡単な領域もあれば、私のように引っ越しが目前に迫ってくるまで、まあいいか奥にしまっておけば、と言っていつまでも整理を先延ばししてしまう性質のものもあります。 一体自分が本当に必要としているものは何だろう? 面倒くさいというだけの理由で、所持する必要も価値もないものを所持品にして、人生を重くしてしまっているのではないか? などということが、やっと見えてきました。 こうして重くするつもりもなく自分という存在は重くなっていくようです。 多分ここには心の柔軟性が関わっているのです。 重くなっていくに従って柔軟性が失われていき、現状維持を良しとしてしまう。 ところがその現状を、自分は必ずしも、いや少しも良しとしている訳ではない… 結局、自覚の有り無しにかかわらず、自分を重くしているのは自分自身だということです。 軽くなれるチャンスはいくらもあるのに、それを「面倒くさい」の一言で延々と先延ばししてしまう。 良くないですね。 良くないということがよく分かりました。 分かるためには、分からない時期を長く経なければならないのでしょう。 これは季節の巡りのようなものです。 その意味で、無駄にした時間はないと思います。 「タイパ」の良い人生を生きられたら最高ですが、どっぷり浸かってきた無駄や不毛な歳月をも、いつか得られる学びのために必要だったと祝福できた時、本当の意味で人生が輝き始めるのだと思います。 今日はあっという間に書き終えることが出来ました。 最近、私は中途半端にしてきたことをしっかり最後まで線を引ききろうとの思いで、生活にいくらかの規律を課すことを始めました。 これについて、また後日お話できると思います。 お読み下さりありがとうございました。 ・・・・・・・・・・ スケジュール 5月2日(土)蠍座満月の浄化ヒーリング 5月17日(日)牡牛座新月の浄化ヒーリング ...