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26通目の手紙 ぎりぎりの所まで行かないと開かない扉をそろそろ開ける話

新しい住まいと、新生活を支えるのに足るだけの仕事を探しています。 どちらも初めてのことです。 暗中模索ですが、これまでずっと何とかなってきましたから、これからも何とかなると信じています。 この18年にわたる精神修養の成果を信じて、前に進んでいきたいと思います。 諸々の教えによれば、ここで「助け」が入るはずです。 今まで読んできた沢山の本にそう書いてありました。 ぎりぎりの所まで行くと、扉が開かれるのです。 それはぎりぎりの所まで行かないと開かない扉。 その扉自体はずっと目の前にあって鍵が開いているですが、人間というものは、しなくて良いことはしないで済ませたい生き物です。 ぎりぎりまで行かないと起動しないエネルギーが人生に必要なら、ぎりぎりの所まで連れていくのが運命というものです。 昨日お伝えしたチェロの話もそうですが、いま私は、これまでに自分が纏ってきたプライドや成功体験に基づく惰性の衣を脱ぐ時に当たっているのだと思います。 それはとても居心地の良い衣でした。 これまでを振り返ると、私は自分で物事をはっきりと決めたことがあまりありません。 ヒーリングの力についてもそうです。 確かに、私は、それに先立つ一年くらい前に(26歳の時に)、ヒーリングの仕事を生業にしできたらいいだろうな、というくらいのことは思いましたが、本気で覚悟を決めるというほどのことではありませんでした。 それでもヒーリングの能力は暴力的とも言って良い形で私の中から目覚めました。 それで、大して真面目に望んだわけでもなく、この道に入りました。 だから私は「具体的にビジョンを定めると云々」とか「叶うまで努力し続ける」という説には懐疑的です。 私自身の身に起きたことは、その真逆だったのですからね… そうではなくて、無意識こそが生きている主体であって、自分はその末端の組織に過ぎない気がするのです。 そして無意識が何を望み、どこに向かっているのかは、私には全然分かりません。 この正体不明の無意識に神という名を与えて外なる宇宙に投影し、その力に翻弄されたり、救いを求めたり、あるいは憤ったり、駆け引きしたり… それが、私が内面においてしてきたことだと思います。 「まあ、放っておいても新居は向こうからやってくるし、台所事情もどうにかなるだろう」と思ってこの一年を過ごしてきましたが、いま私に求められている行動はそれでは...

25通目の手紙 出来なすぎてプライドががたがたになった話

5月末に開催されるフルート教室の発表会。 先日、チェロ奏者として初リハーサルに参加しました。 かなり怖い思いをしました。 自分がいかに弾けないかということを痛感させられました。 編成は、フルート奏者の伴奏を、プロのチェンバロ奏者とアマチュアの私が務める、という形になります。 チェンバロの達人のすぐ横で音を出すのは、非常に居心地の悪い体験でした。 最初の音を出した瞬間、「弾けないな、この人」と見抜かれたはずです。 断っておくと、チェンバロ奏者もフルートの講師も優しい方で、私に嫌味や非難の態度を示すことは微塵もなく、優しく指示を出して下さいました。 でも、「これじゃ全然駄目だ」と思わないわけにはいきませんでした。 自分が生徒の立場なら何ともないのですが、出演者を後ろから支えてあげなくてはならない役目を割り振られているにもかかわらず、全く自分にその能力がないことを知るのは辛いことでした。 皆様の発表の機会を残念なものにしたくありません。 でもその役が務まるのだろうか? 帰り道、「降りようかな」と思いました。 翌日は、楽器に触る気になれませんでした。 でも、この機会は与えられたものです。 自分から欲しがったのではなく、思いもかけぬ形で転がり込んできたものです。 リハーサルの帰り道、フルートの先生が「去年演奏を見て、これは弾ける人だ、と思ってお願いしました」と言って下さいました。 宇宙は「出来るでしょう?」と言っているのです。 簡単に出来ることではなく、ヒリヒリしながら頑張れば出来るでしょう、ということを、宇宙はもたらすものです。 それを、受けて立ったわけです。 受けて立った以上はやりきりたいです。 これまでよりももっと真剣に、注意深く練習するようになりました。 そうしたら、具体的な改善方法が見えて来ました。 我流がいけないとは全く思わないのですが、ヒーリング、音楽、絵、小説、料理、私は全てにおいて我流であり、自分の満足と納得感だけを頼りにここまでやってきました。 「そして、その先に行きましょう。今こそ自分を広げる時。そのためにはヒリヒリしなければ」と。 これが宇宙のメッセージなのだと思います。 14組、34曲、ということで量的にも大変ですが、本番当日までに自分自身にも参加者にも満足できる出来に仕上げたいと思っています。 お読み下さりありがとうございました。 ・・・・・・・・...

24通目の手紙 人生に必要な受動性とは

宇宙の導き、というものは常にあります。 そのためには受動的であることが必要なのですが、受動的とはどういうことなのか? 事を起こるに任せ、気に入らないと文句を言う。 これは受動性ではないのです。 単に流されているだけ。責任放棄に過ぎません。 真の受動性とは、事を起こるに任せ、そしてそれを「受けて立つ」ということだと思います。 「来るなら来い、何でも受け止めてやる」という気概とでも言いましょうか。 その時、宇宙が、この人を育てたい、もっと良い所に運んであげたい、という流れを作り出します。 これが宇宙の「導き」であって、それは翻弄されるのとは別のことです。 確かに渦中にあると翻弄されているかのように感じられることがあります。 私自身、過去を振り返ると、翻弄されていると思っている時期が長くありました。 昨日も書きましたが、それもそれで必要な時期です。 学ぶためには無知の段階が必要です。 やがて、これは自分の深い願いが作り出した一連の流れだったのだ、ということが飲み込めるようになってきます。 私は小説を書く人間ですから、小説的に人生を俯瞰する傾向があります。 そうすることで、目の前のことに一喜一憂したり、心を奪われてたりする状態よりも多くのことが見えてくるのです。 小説は「あれがこれに繋がっていたんだ」ということの連続ですし、無駄なエピソードは本来、理想的には、ありません。 「このエピソード、絶対要らないでしょ」という箇所を読んでいる時は、不毛な感じがするものです。 言及されるエピソードはその時点ではどこに繋がるのか分からないのですが、どこかの時点で明確な意味と論理的連続を明らかにします。 それが伏線回収ということです。 そして伏線回収が見事な時、そこにカタルシス(解消による浄化)が生じます。 大掛かりな物語は、伏線を伏線のまま、話を進めます。 人生とはまさに、大掛かりな物語ではないでしょうか。 短編小説ではありません。 だからこそ数多くの伏線が散りばめられており、然るべき着地点に向けて迂回したり時に蛇行したりしながら、そのそれぞれの流れが、同じ方角を指して向かっていきます。 そういうふうに人生を見た時、かつて起きたことは今に繋がっていて、今起きていることは未来に繋がる、ということが得心できます。 この物語を虚心に読むということ。 それが、受動性、という人生の極意なのではない...

23通目の手紙 地下トンネルを掘ったらベルギーに繋がった話

毎日一行の記録をつけています。 印象に残る出来事だけを書くのです。 0個の時もあれば、5つほどのことを書き込む日もあります。 そしておよそ1か月後に、先月のものを見返します。 すると「あれは別にどうということはなかったな」ということと「これは今に続いているな」ということが識別されます。 後者には赤鉛筆でアンダーラインを入れます。 こういうふうにして自分の足取りを確認するのです。 1月22日に、「小説を書き直すべきだ」との心の声が聞こえました。 昔書いた小説が3つあります。 そのことです。 それらの作品は良いインスピレーションから生まれましたが、今の自分はこれを未成熟なものとして満足することが出来ません。 いずれは…と思いつつ、小説を扱うのは非常に面倒くさいことなので、無期限延期していました。 しかし身辺変化が急を告げる今こそ、これを完遂しなければならないと思い、2代前のパソコンからデータを取り出しました。 面倒くさい、面倒くさいと良いながら、とうとう29日に着工しました。 すると不思議なことが起こりました。 語学交換学習のサイトに私はアカウントを持っているのですが、ずっと放置しています。 このサイトでは、例えば日本語を学びたい英語話者が、英語を学びたい日本語話者とコンタクトを取り、お互いに学習を助け合うということが奨励されています。 まあ、語学系出会い系サイトとでも言いましょうか。 (私には不純な動機はありませんぞ) 何しろ放置していたアカウントですから、コンタクトが1年間0件でした。 しかし、小説を書き始めたタイミングで突然、急増しました。2か月で15件。 私のプロフィールははるかな過去に埋もれているはずなのに、どうやってこれらの人たちは私を見つけたのか、不思議です。 しかしこういうことをするのが、宇宙です。 または、無意識、ハイヤーセルフ、神とも言います。 その中の一人は、最初から特別に温かい人柄を感じさせる女性でした。 私は小説を書くのに没頭していて精神的余力がありませんでしたので、返事は日本語で書いてAIに翻訳させて送るだけでした。 別にこのやり取りは続かなくて良いと思っていました。 しかしメールのやり取りが続く内に、この人物が完全に「宇宙と同調して」生きている人だということが分かりました。 兆し、シンクロニシティ、直感、委ねること、善を信じること… 何一つ...

22通目の手紙 「面倒くさい」という呪いが解ける時

心、というお馴染みの言葉を解剖し深く検分してみると、恐ろしく複雑な構造と働きがそこにあることが分かります。 心理学と脳科学はこれを大部分解き明かしていると思うのですが、本当に分かるためには、何と言っても自分で分からないといけません。 例えば掃除を出来ない人はなぜ出来ないのか。 そういう人が一念発起して掃除の習慣を身につけると現実がどう変わるのか。 これは身を以て知るしかないのです。 掃除、と一口に言っても、手を付けやすい簡単な領域もあれば、私のように引っ越しが目前に迫ってくるまで、まあいいか奥にしまっておけば、と言っていつまでも整理を先延ばししてしまう性質のものもあります。 一体自分が本当に必要としているものは何だろう? 面倒くさいというだけの理由で、所持する必要も価値もないものを所持品にして、人生を重くしてしまっているのではないか? などということが、やっと見えてきました。 こうして重くするつもりもなく自分という存在は重くなっていくようです。 多分ここには心の柔軟性が関わっているのです。 重くなっていくに従って柔軟性が失われていき、現状維持を良しとしてしまう。 ところがその現状を、自分は必ずしも、いや少しも良しとしている訳ではない… 結局、自覚の有り無しにかかわらず、自分を重くしているのは自分自身だということです。 軽くなれるチャンスはいくらもあるのに、それを「面倒くさい」の一言で延々と先延ばししてしまう。 良くないですね。 良くないということがよく分かりました。 分かるためには、分からない時期を長く経なければならないのでしょう。 これは季節の巡りのようなものです。 その意味で、無駄にした時間はないと思います。 「タイパ」の良い人生を生きられたら最高ですが、どっぷり浸かってきた無駄や不毛な歳月をも、いつか得られる学びのために必要だったと祝福できた時、本当の意味で人生が輝き始めるのだと思います。 今日はあっという間に書き終えることが出来ました。 最近、私は中途半端にしてきたことをしっかり最後まで線を引ききろうとの思いで、生活にいくらかの規律を課すことを始めました。 これについて、また後日お話できると思います。 お読み下さりありがとうございました。 ・・・・・・・・・・ スケジュール 5月2日(土)蠍座満月の浄化ヒーリング 5月17日(日)牡牛座新月の浄化ヒーリング ...

21通目の手紙 「心に従え」と「心を従えよ」

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去年まで、毎日ブログを書いていました。 今年に入ってからは随時ということにして、タイトルを「手紙」と改めました。 最近、私の中で人生に対する一つの姿勢が結晶化しつつあります。 それは習い性になった流動性と受動性を脱し、ついに自らの意志によって人生を形成していこうという在り方です。 私は自分の生き方について、ゲド戦記第三巻『最果ての島へ』で魔法使いゲドの態度を時々連想します。 その本の中で、ゲドは小船に乗り、波に流されるままになっています。 同行する若者は不満に思います。 なぜ風を起こす魔法の力を持っているのにそれをしないでこんなに無駄な時間を過ごしているのかと。 しかしゲドには深い考えがあり、時を待っているのです。 そしてついにその「時」が来て、魔法の力で風を起こすと、船の進むその速いこと。 場面の詳細は覚えていないのですが…そんな話です。 長い停滞が打ち破られる瞬間は爽快なものでした。 いま私の中で分かりつつあることは、そうか、心の力とはそういうふうになっているのか、ということ。 これがずっと分からないので、動きを止めて観察していました。 この5年くらいは特に。 まあ、分かってみると、だいたい本に書いてあることなんですけれどね… 心に対しては、二つの関わり方があります。 一つは心に従うこと。 もう一つは心を従わせること。 正解はどちらにあるかと言うと、どちらか一方ではなく、その高度な折衷です。 というかその折々の状況と要請を鑑みて、柔軟にいずれにもスイッチできる能力です。 私は「心に従うこと」一辺倒でやってきました。 この道については達人の域だと思っています。 けれど宇宙というのは、一義的ではなく、二義的なのです。 要するに、誰にとっても確かな答えにすがりつき、染まりきれば、それでクリアとはならない複雑なゲーム。 右と左があるように、上と下があるように、その時々で見る所も居る所も固着してはいけないのです。 心を従わせすぎる人、つまり頭でっかちな人には「心に従いなさい」 心に従うあまり、主体性が弱い人には「心を従わせなさい」 そして時により場合により「このことでは心に従いなさい」または「心を従わせなさい」 本当に難しいです。生きるということは。 そういうわけですから、「心を従わせること」が今、私が始めたことですが、言うまでもなく、万事計画通りに遂行しようとして無理を...

20通目の手紙 脳の高次機能

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昨日の朝、「浄化」ということに理解が及びました。 このような時、理解は次のようなプロセスによってもたらされます。 無数の体験は無意識という格納庫に貯蔵されています。 これらは繋ぎ合わせられることによって知識に昇華される、情報というパズルの欠片です。 そこには、保留になっていること、叶わない願い、成功体験、苦しみ、喜び、手応え、諦め、印象的な記憶、聞いた話、学んだこと…色々な情報が比較的無秩序に放り込まれています。 私たちが人生を対して見解を持つ時、または現実に適応し対処しようとする時、これら乱雑な貯蔵庫の中から瞬間的に、自分自身にとって筋道の通った物語や法則が紡ぎ出されます。 たとえば「あの時ああだった。今回はそれに似ている。だから今回も適切な対処は」というふうに。 しかしこれはあくまでも解釈なのです。 別の角度から見るとまったく別のように見えるのが、現実、そしてこの世界というものです。 時として、私たちは記憶の欠片から全く新しい「物の見方」を形成しなければならないことがあります。 そのプロセスを、人生の試練と言います。 過去の体験の印象や辿ってきた道の重力が強烈だと、その情報を合理化する説明、物語、世界観を放棄することが難しくなります。 例えば「私はいつも粗末にされる。だから今もまた粗末にされるんだ」 過去にこだわってしまうのです。 実際には、毎日私たちは新しい世界に目覚めます。 それを昨日までと同じ世界にするかどうかは私たちの心の在り方にかかっています。 瞑想というのは、私たちが今日という日にチューニングするために必要なのです。 瞑想している時、脳の低次機能が抑制され、代わりに高次機能が動き出します。 低次機能とは、普段のおなじみの思考です。 ここには、生活のために必要なものもあれば、単なる脳のCPU浪費の動作もあります。 今日の昼ご飯について延々と悩んだり、100円程度の価格差の右と左の品物を慎重に吟味するとか、更には後で「あっちを買えば良かったかな」と振り返ったり。 全くの無駄。 一方、高次機能というのは、言ってみれば神の視点であり無我の心であり、現実を創造する力を持っています。 高次機能は、人間ではありません。 お金はあった方がいい、とか、皆と程々に仲良くした方がいい、とか、あんまり我が儘は良くないな、とか、そういう社会的動物としての人間とは全く別の判断基...