24通目の手紙 人生に必要な受動性とは
宇宙の導き、というものは常にあります。 そのためには受動的であることが必要なのですが、受動的とはどういうことなのか? 事を起こるに任せ、気に入らないと文句を言う。 これは受動性ではないのです。 単に流されているだけ。責任放棄に過ぎません。 真の受動性とは、事を起こるに任せ、そしてそれを「受けて立つ」ということだと思います。 「来るなら来い、何でも受け止めてやる」という気概とでも言いましょうか。 その時、宇宙が、この人を育てたい、もっと良い所に運んであげたい、という流れを作り出します。 これが宇宙の「導き」であって、それは翻弄されるのとは別のことです。 確かに渦中にあると翻弄されているかのように感じられることがあります。 私自身、過去を振り返ると、翻弄されていると思っている時期が長くありました。 昨日も書きましたが、それもそれで必要な時期です。 学ぶためには無知の段階が必要です。 やがて、これは自分の深い願いが作り出した一連の流れだったのだ、ということが飲み込めるようになってきます。 私は小説を書く人間ですから、小説的に人生を俯瞰する傾向があります。 そうすることで、目の前のことに一喜一憂したり、心を奪われてたりする状態よりも多くのことが見えてくるのです。 小説は「あれがこれに繋がっていたんだ」ということの連続ですし、無駄なエピソードは本来、理想的には、ありません。 「このエピソード、絶対要らないでしょ」という箇所を読んでいる時は、不毛な感じがするものです。 言及されるエピソードはその時点ではどこに繋がるのか分からないのですが、どこかの時点で明確な意味と論理的連続を明らかにします。 それが伏線回収ということです。 そして伏線回収が見事な時、そこにカタルシス(解消による浄化)が生じます。 大掛かりな物語は、伏線を伏線のまま、話を進めます。 人生とはまさに、大掛かりな物語ではないでしょうか。 短編小説ではありません。 だからこそ数多くの伏線が散りばめられており、然るべき着地点に向けて迂回したり時に蛇行したりしながら、そのそれぞれの流れが、同じ方角を指して向かっていきます。 そういうふうに人生を見た時、かつて起きたことは今に繋がっていて、今起きていることは未来に繋がる、ということが得心できます。 この物語を虚心に読むということ。 それが、受動性、という人生の極意なのではない...