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1月, 2024の投稿を表示しています

龍の絵

久しぶりに、絵の制作依頼を頂いた。 辰年の方から、龍の絵である。 早速取り掛かり、数日かけてなかなか良い龍が描けた。 いざ描くとなると、龍は難しい。 〈自分の龍〉を出さないといけないから。 言うまでもなく、龍は実在しない生き物である。 だから全ての龍は、描いた人にとっての〈自分の龍〉ということになる。 ゆえに、龍を描く時、他人の龍を見本にしてはいけない。 〈自分の龍〉であるということ――それが、龍の、恐らくたった一つの存在条件なのだから。 出てきたのは、形だけで言えば〈普通の龍〉である。 角が2本あって、前足と後ろ足があって、たてがみがあって…。 〈自分の龍〉といっても、デザイン面の話をしているのではない。 私が描いたその龍は、天を飛翔するのではなく、力強く地に足を踏みしめていた。 まだ暫く飛ぶつもりはなさそうである。 もちろん飛ぶことはいつでも出来る―― しかし今は雌伏の時、力を蓄える時。 伏龍である。 そして見る者(制作依頼者)を試すような笑みを浮かべている。 その笑みがとても良い。 「おまえには出来る。私は知っているぞ」という目をしている。 そんな龍だった。 とても良い機会を頂いた。 絵は、一人ではなかなか描けないものだから。

〈好き〉と〈隙〉

「私、好きなことしかしていないんです」と言う人がいたら、そりゃ運が良いだけだろう、と思うかもしれない。 しかし実際には、その人は努力をしていると思う。 好きなものを見つける努力、手に入れる努力、好きではないものから身を守る努力、断る勇気を持つ努力… こうして考えてみると、「好きなものやことにいつも囲まれています」と言えない人生は、単なる怠けの結果なのかもしれない。 先日ふと「好きのない所に隙がある」という一文が浮かんだ。 〈隙〉とは何だろう。 それは「まあいいや、これで」という心ではないだろうか。 その一つ一つは小さなものながら、それが積もり積もって山となり、「まあいいや、私の人生はこれで」となる。 それが温かな諦観になっているのかと言えば、得てしてさにあらず、 流される人生を生きている人は、いつも文句を言っている。 「こんな流され方は嫌だった」みたいなことを言う。 それは都合の良い話。 自分がどうありたいかということは、やっぱり自分だけが決められるもの。 必要なのは一大決心ではなく、日々の〈好き〉と〈隙〉の峻別、そしてそれに基づく選択 なのだ。 〈隙〉には、他人の無理な要求や我が儘や、焦りや不安の思い込みがどんどん入ってくる。 雨水を澑めてしまう穴ぼこのように。 〈隙〉をなくすには、その穴を〈好き〉で埋めていくことなのではないだろうか。 そしてそうすることは「文句を言わない人間」になるための最低条件ではないだろうか。 周りの人を観察すると、やっぱり〈好き〉の多い人ほど〈隙〉が少ないことに気付く。 そして最後に重要なことがもう一つ。 そうであろうと何であろうと、関わった以上は自分の身の回りの全てを〈好き〉になる努力――これも同じく、必要なことかと思う。

バイキンマンについて考える 2

バイキンマンの行動原理について考えてみた。 彼は誰かが楽しそうにしていたり、感動していたり、美味しいものを食べていたりすると、それを不満に思い、ぶち壊しにかかったり、強奪を試みたりする。 することは全て「オレサマ」のためであり、他人のためには何もしない。 「オレサマ」を見てほしいのだ。 「オレサマ」をいつも最優先してほしいのだ。 特筆すべきは、彼はアンパンマンのことを「おじゃま虫」と言う。 「やめるんだ、バイキンマン!」 「出たな、おじゃま虫!」 お邪魔虫はおまえだろう、と誰もが思うが、ことほどさように世界認識というものは必ず自己中心的であり、またその意味で常に相対的なものである。  しかしバイキンマンはこれほどのエゴイストであるにもかかわらず、邪悪の印象を与えない。 何と言ってもあの笑顔はかわいい。 まどかもバイキンマンが好きである。 ふと、つまりこれは人間の心の芽生えを擬人化したものなのだと気が付いた。 まどかを見ていると、子供として当たり前のことだが、とても自己中心的である。 常に、とは言わないが、非常に多くの場合において、自分が最優先され、充分な注目と配慮が向けられることを望んでいる。 言うまでもないことだが、その求めは邪悪ではない。 ねじくれた、または病的な要求でもない。 人生の初期における、命のありのままの、自然の発露なのだ。 だからこそなのだろう。 バイキンマンが「オレサマが〜」と叫ぶ時、私たちには見た覚えのあることを、身に覚えのあることを思い出すのではないだろうか。 それが彼に対する、言葉にするまでもない赦しの源にあるのだろう。 そんなことを思った。

バイキンマンについて考える 1

子供が来ると、機関車トーマスかアンパンマンを一緒に観る。 機関車トーマスについては、ちょっと微妙だなと思う所がある。 それは有用性を強調しすぎること点である。 「役に立つ機関車であることを証明しなければいけない」 「役に立たない機関車はスクラップにされてしまう」 というような台詞が頻発する。 お国柄もあると思うが、どんなものだろうこれはと思う。 子供には、「役に立とうと立つまいと」ということを教えてやりたいものだと思う。 一方、アンパンマンは素晴らしいと思う。 特にバイキンマンが秀逸である。 バイキンマンはいつも悪さをする。 そしてアンパンマンにお仕置きされる。 しかし彼は凝りずにまたやってくる。 アンパンマンは悪を根絶しようとはしない。 アンパンマンの村(?)の皆の衆もまた、バイキンマンを懲罰または追放しようとはしない。 バイキンマンの悪口さえ言わない。 言葉でこそ語られないが、バイキンマンがいることを皆が許容しているのだ。 (改めて大人の目で見ると、バイキンマンはかなり本気で殺しにかかってくるので呆れるのだが…) まどかは言う。「どうしてバイキンマンはいつもいたずらしにくるのかな」 私は答える。「本当はアンパンマンたちと一緒に遊びたいんじゃないかな」 「きっとそうだね」とまどかは言う。 機関車トーマスの方にも悪いのがいる。 これがまたいかにも人相が悪く、邪悪な精神を宿している。 まどかは言う。「どうして〈いたずら貨車〉はいつもいたずらするのかな」 私は答える。「あれは性格が悪いんだ」 全然弁護する気にならない。 バイキンマンには愛嬌がある。 まどかもバイキンマンが好きである。 悪いやつなのに、憎めない。 こういうキャラクターの存在そのものに、陳腐なスローガンでは絶対に語ることの出来ない、本当の深い優しさを感じるので、バイキンマンの悪行から目が離せない。

役に立たないものこそ

Eさんから。 「 こんにちは。 ブログを書いてくださり、ありがとうございます。 『 「今・ここ」か否か』 を読んで、 私が自分を縛っているもののひとつが役に立つものを作らなければ 、自分の存在意義もない、ということでした。 (…) 今まで、こんなもの作っても何の役にもたたないしな、 と作らなかったもの。 それが私のゲーテなのか、 と縛りがゆるみ、 むしろ心の役に立つことと自分を許可できたように感じました。 ありがとうございました。」 最近、実は私も新しいことを始めた。 それは日本史年号の暗記。 「何やってんだ」と笑って下さい。 Eさんではないけれど「 こんなもの覚えても何の役にもたたないしな」と思っていた。 でも、ある日、「何の役にも立たないことをやらないでいると、何か得するのか?」とふと思った。 ないのだ。 そんな所で労力をケチったからといって、本当は 何の得もしていない。 むしろ自分の動きを小さくしているという点で、損をしている。 やってみたいんだからやってみた方がいい。 覚えて詰まらなければまた忘れるだろうし、面白ければ記憶も定着するだろう。 試みて分かったのだが、別に大したことではなかった。 半日も費やすと主要年号は全部覚えてしまえた。 おかげで、自分の記憶力もなかなか捨てたものじゃないなと見直せたし、時系列が把握できたことで歴史に対する理解が明確になり、 喜びが増えた。 遠い上に登るのは無駄だと断じていた山は、意外と近くて低かった。 そして無駄どころか、結構なお土産までついていたのだった。

美しさを求める獅子座の満月

自分自身を美しく保ち、更にいま以上の美しさを求めるということが、とても大切だと思う。 虚栄の美しさではない、自己の潜在性を引き出す試みの結果としての美しさである。 そこで私は筋トレを勧めている。 大晦日の真呼吸会で、そのことについて触れる機会があったので、興味のある方は観て頂けると良いと思う。 https://www.youtube.com/watch?v=lZ6SET9TsLU&t=2278s (22:55ーです) 精神性を重んじる人は、「外形的な美しさなんて…」と思うかもしれない。 勿論、根本的に大事なのは精神性なのだが、精神性は必ず外面的にも表れる。 見た目をおろそかにするということは、実は中身をおろそかにしていることの証明でもある。 努力さえすれば、1円も払わずとも、肉体を美しく磨いていくことは出来る。 そうすることによって精神もまた磨かれていくと思う。 人間の精神の幸福と充実のためには、〈内なる動物〉を大切にすることが必要だと思う。 インナーチャイルドならぬ、インナーアニマルである(良いこと言った)。 動物たちは美しくあるためにいつも努力している。 毛づくろいし、歌の練習をし、求愛のダンスをする。 「アニマル」と言ったばかりだが、花だってそうだ。 「いいんです、大事なのは内面なのでね」と言って、外に見える/聞こえる美しさに無関心なものは、自然界では生きる場所を与えられない。 人間はともすると美しさの追求を「お金のかかること」「見栄」「無駄なこと」と決め付けがちだが、もっと枠を大きく広げて自然界を参照すれば、美しさの維持と追求が、生きていることに直結していることが分かってくる。 今日の満月のメッセージ。 【スケジュール】 1月26日(金)牡牛座満月 2月10日(土)水瓶座新月 【メニュー】 ①カウンセリング 10000円 ②ヒーリング 10000円 ③リモートカウンセリング 7000円 ④遠隔ヒーリング(お布施) ヒーリングアクセサリー 「プレローマ」 36000円 【お問い合わせ下さい】 ①LINE:atelierkoshiki ②microcosmo.healing@gmail.com ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ホームページ:https://www.microcosmo-healing.com/

心の中の、動物

先日子供が泊まりに来ていた時のこと。 食事前に「頂きます」を促したら、まどかは泣き出してしまった。 言いたくなかったらしい。 いつもは言っているとのことなのだが、その日はその気分にならなかったようだ。 考えてみると、食べる前に「頂きます」と言う生き物は人間だけである。 子供の中に(大人の中にも、なのだが)、〈人間の部分〉と〈動物の部分〉があり、その時は、動物の心が全面に出てきたのだろう。 彼が、家や保育園で、「頂きます」を無理に強制されているとは思わない。 皆がやっているので、自然と一緒にやっているはずなのだ。 しかしそうして社会化を進めていく心の最後尾にはいつも動物の心があり、「どうして?」という目で、暗闇の中から世界を見ているのかもしれない。 「皆がしているから自分もそうする」が、いつの間にか「皆がしているから自分もしなければいけない」になり、更にやがて「皆」という梁(はり)から脱した後までも「しなければいけない」という囚われだけが亡霊のように残る。 こんなふうにして、私たちは自分の心に多くの制限をかけていくことになるのではないだろうか。 勿論、最終的に人間はいつか、「頂きます」ということを当たり前のこととして身に付けていく訳だが、その内面にはいつまでも動物の無垢な心が残っていてほしいと思う。 それは魂の健全だから。 人間でしかいられない人間に成り果てるより、「自分は動物だけれど、人間としても生きているんだ」と自己認識できたなら、どんなに自由に、自然体で生きられることだろう。 「いただきますっていいたくないのお」と子供が涙をぽろぽろ零しながら言った時、心の根っこにある自然の故郷を見た思いだった。 存分にその思いを味わって、よく知って、それから「あるべき」という社会性を、静かに載せていくことが出来たら、本当に素晴らしいことだと思う。 彼はそのささやかな抵抗に満足したのだろうか、 次の食事の時には、私から言うのも待たず「いただきます」と言ってからまどかは美味しそうに食べ始めたのだった。 明日は獅子座の満月です。 ヒーリングのお申し込みをお待ちしております。 【スケジュール】 1月26日(金)獅子座満月 2月10日(土)水瓶座新月 【メニュー】 ①カウンセリング 10000円 ②ヒーリング 10000円 ③リモートカウンセリング 7000円 ④遠隔ヒーリング(お布施)

「今・ここ」か否か

水木しげるは南方に従軍するのにゲーテを持っていったのだという。 これを聞いた時、とても驚いた。 戦地での話を読んでも、やはり普通の人ではない。 いながらにして、別の次元を生きている。 最近、これを引き合いに出すような話をすることが時々あった。 今のことに囚われている時、忙殺されている時、私たちは「そのこと」しか見えなくなる。 視界を外し、心を広げれば、他の可能性やもっと楽な在り方があるというのに、そのことに気付かない。 鳥はいつも鳴いているのに鳥の声が聞こえなくなる。 どうしたらいいのだろう? 答えは、「今・ここ」から離れることではないかと思う。 これはちょっと変な話だ。 というのは「今・ここ」に集中せよ、さすれば、というようなことを日頃よく聞く。 確かにそれも一理ある。 しかしそれが功を奏することもあれば、それが足を引っ張ることもあるのではないかと思う。 水木しげるはどう考えてもラバウルで「今・ここ」にいなかったように思えてならない。 精神は他の所にいたのだ。 だから命も助かったし(腕は失くしたが)、それどころか原住民に気に入られて嫁をやるから永住せよとまで言われ、楽しい思いさえしている。 戦場の恐怖には遠く及ばなくとも、日々の生活の中で「そのこと」だけに視界が覆われてしまうことはよくある。 そんな時、どれだけ自分がそこから離れられるか、離れることによって精神の自由を保てるかということには、〈日頃の準備〉が大いに物を言うと思う。 誰もがゲーテを戦場に持っていけば戦争の絶望や恐怖から距離を取れる訳では当然なく、 日頃からゲーテに心惹かれていたからこそ、水木しげるにとってはそれが救済になったのだ。 ではこの文脈で言うゲーテとは何だろう。 それは「役に立たないもの」ではないだろうか。 役に立たないものこそが、翻って心を支える大きな役に立つのだ。 【スケジュール】 1月26日(金)獅子座満月 2月10日(土)水瓶座新月 【メニュー】 ①カウンセリング 10000円 ②ヒーリング 10000円 ③リモートカウンセリング 7000円 ④遠隔ヒーリング(お布施) ヒーリングアクセサリー 「プレローマ」 36000円 【お問い合わせ下さい】 ①LINE:atelierkoshiki ②microcosmo.healing@gmail.com ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

プラス思考ではなく、「プラス感覚」で

痛み苦しみ以外に目を向ける、というと、 要するにプラス思考ということだろうか、と思われるかもしれない。 それもそうなのだが、プラス思考だけではない。 というか、どちらかというと、私はプラス思考はあまり好きではない。 無理があるからだ。 思考によってではなく、感覚によって、心を導いていくのが良いと思う。 例えば先日の真呼吸会ではこうお話した。 呼吸を感じるといってもそのことに過度に集中するのではなく、風にそよぐ木の影を見る、鳥の声を聞く、などする、そうすると自然と呼吸が穏やかに深くなるでしょう、と。 皆様の反応は良かった。 普段、私たちは感覚を専ら受動的に使っている。 「鳥の声?ああ、鳴いていますね」というようなことだ。 しかし感覚を能動的に用いる時、意識に変化が起きる。 自ら感じに行くことが大切なのだ。 痛みや苦しみは、好ましくないものだ。 それは強い力で私たちの心を引きずり込み、視界を固定し、見える全てを暗転させてしまう。 だからこそ、反対側に意識を向けていく必要があり、そのために、私たちは感覚を用いるという選択肢を持っている。 この試みは、プラス思考よりはるかに自然体で出来、またプラス思考のように息切れすることもない。 感じる、味わう、楽しむ…といったことは、想像を超えた好影響を及ぼすのです。

全体性と、病気

気になる所が気になるのは当たり前だが、気にすべき所はそこではない 、ということがある。 Aさんのお父様が前立腺癌を患われたとのことで、ヒーリングをお願いされた。 しかし私の遠隔視では前立腺の問題は全く見えず、全身の気の歪みの方が気になった。 前立腺に異常なし、と言うのではなく、それ以前に、といった所である。 それも通常の範囲の、背骨を中心軸とする諸々の不均衡というレベルではなく、全身が怪電波を発しているような印象なのだ。 これでは治るものも治らない。 むしろ他の箇所も二次的付随的に病んでいくことだろう。 そうお伝えしたのは術後のこと。 「河邊さんのヒーリングとお見立ては、何度体験しても、驚かされます。 まさに今朝、母から父の様子を電話で聞いていたところでした。 ホルモン治療をかなり強めにやっているらしく、更年期障害のような発汗が、頻発しているとのことでした。だるさもあるようです。」 何事も、全体で成り立っている。 一箇所だけを注視する時、しばしば全体への視座を見落としている。 前立腺さえ良くなれば、という一心で、全身に損害を与えてしまう。 こういうことを西洋医学の医療従事者に言っても仕方がない。 患者になる立場の私たち自身が、このことを理解していないといけない。 箇所を見るのではなく、全体を感じなければならない、と。 また別件。 Hさんのお母様は肺癌を患われており、そのことで長らくヒーリングをさせて頂いている。 御本人の苦しみは御本人にしか分からない。 他人がとやかく言うのは本当は節度を超えている。 ただやはりここでもあえて同じ助言を差し上げたいと思う。 痛い、苦しい、という事実は確かに動かないものとしてありますが、それ以外の所に積極的に目を向けられるように、と。 痛い、苦しいことがあると、自然と自分の関心の大半がそこに向けられてしまうけれど、冷静にこれを評価すれば、そうすることによって不安や苦痛が増大することはあっても、良い影響は一切ないのです。 病中にある今、 自分に良い影響を与えることが最重要であるはず で、悪い影響は悪い結果をもたらすだけです。 そして良い影響を与えることができるのは自分自身以外にありません。 自分に対してどうしたら良い作用を与えることができるだろうと考え、それを実行していくことこそが大事なことなので、病に苦しむ方々は、是非そのような取り組み

喜びは何処より来たるや

喜びというものは思わず知らず、意外な所からやってくる。 最近、いくらを頂く機会に与った。 これがなんと10年ぶりくらいのこと。 その前は…というと、やはりまた10年ぶりくらいだったような。 それくらい滅多に食べない。 しかし子供の頃は大好きだった。 家でお寿司を取った時に許される最大の贅沢が、いくらだった。 かくして私の潜在意識には、贅沢の象徴とはいくらである、と書き込まれているのかもしれない。 先日いくらを頂いた時、私は幸せのあまり拍手した。 このような喜びは得ようとして得られるものではない。 やってくるのだ。 この冬の始めには、熱燗の道具である「ちろり」を買った。 開封した時、私は「うっほっほ」と喜び余って小躍りした。 文字通りに小躍りしたのである。 一体私の中の何者が、こんなにも喜んでいるのだろうか。 私はそんなに酒好きなのか。 いや、それだけでは済まない、 明らかに「自分」ではない、自分の底にいる誰かだった。 思うに、その誰かさんが喜ぶことが、心にとって大事なのだ。 その喜びは得てして一過性のものだが、そんなことは関係ない。 いやむしろ、「その一瞬の内に喜ぶ」ということこそ、心の栄養なのではないか。 大晦日のいくらに続いて、新年早々うにが来た。 うにを頂くのは生まれて初めてのことだった。 10年ぶりのいくらに、初めてのうに… この幕開けだけでも、今年が私にとって何か特別な一年になりそうことが伺われて、楽しみである。 ちなみにうには、生クリームと醤油と海苔をソースとしてスパゲティで頂いた所、大変な美味だった。 一方いくらは、いくら丼以外の選択肢を持たない。 いくらでも頂けるので。

「こわい」

時々、子供を公園に連れていくと、年上の子供たちの配慮に驚かされる。 そういう場面は、主に遊具で見られる。 遊具では、譲り合いが求められる。 先日は、揺れる吊り橋の上でまどかが固まっていた。 大きな男の子が一人、その遊具に登ってきた。 大丈夫かな、と思って見ていたけれど、その少年は、小さな子供にぶつからないように、更にそれだけでなく、無用に足場が揺れないように巧みに渡っていき、しかも「大丈夫でしたよね?」という目で私に振り返って確認した。 「ありがとう」と私は彼に言った。 なおも凍りついているまどかの側に、今度は女の子が二人やって来た。 7歳と10歳とのことだった。 「下を見なければ怖くないよ」 「網があるから滑って落ちても大丈夫だよ」 などとまどかにアドバイスを優しくしてくれる。 昔はこうだったかな、と思い返すと、どうも様子が違った気がする。 年長の子に(同い年の子にも)よく突き飛ばされていたような、遊具はより活発な子に専有されていたような気がするのだが… どうだっただろう、定かな記憶ではない。 とにかく言えることは、子供たちの中には、より小さな子供を保護しようという本能があるようだ。 私にはそれがとても美しいものだと思われ、胸を打たれる。 いつ、人はそういう気持ちを失ってしまうのだろう。 慈善事業というような大それたことではなく、今目の前にいる人に0円でできる親切を行うということ。 そこには多分、優しさだけでなく、無我ということが関わっているのだろう。 「どうしよう、助けようとして逆に迷惑がられたら」なんてことを、大人は行動するより先に考えてしまうものかもしれない。 子供はそんなことを考えないから、素直に助けの手を差し伸べられるのかもしれない。 優しくあることは本能だが、その表現を止める恐れは後天的なものなのだろう。 私は子供に話しかけられやすいらしく、その日もその女の子二人や、他の男の子と随分お喋りを楽しんだ。 2歳くらい子供は、わざわざリュックの底まで開けて、拾ったどんぐりを見せに来てくれた。 でもそのお母さんは腰が引けていて、知らない人から離れたくて仕方がない。 やはり恐れというものは後天的なものに違いないと改めて感じた。 だからこそ、「怖い」はそう感じるだけで、実際怖い訳ではないんだよ、ということを、子供に伝えたいと思っている。

「いいこ」

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子供の爪の様子がおかしいとのことで母親が気を揉んでいる。 けれどもしばらくは病院に連れて行く時間がないと言う。 そこで私が代わりに行ってやることにした。 案に相違せず何事もなかったけれど、診断を受けて母親は楽になったに違いない。 その日一日、私は子供と過ごすことになった。 子供は私の所に来るとずっとテレビ(に繋いだパソコンでアンパンマンなど)を観ている。 これをどうしたものかと考えあぐねていた。 時々来る場所だから、存分に甘えたいというような気持ちが働くのも分かる。 生活の場ではないのだから、あまり固いことを言いたくもない。 そこで基本的にかなり自由にさせているのだが、それでもやはりという限度がある。 外に連れ出すことにしているけれど、なかなかテレビの魅力には抗い難いようだ。 しかしその日は明らかに、テレビ以外のことで何かして遊ぼう、という素振りを見せていた。 ほう、と最初は思ったけれど、どうもこれは不自然である。 多分、私の意志に影響されて、自然の欲求を抑え込んでいるのだ。 とうちゃんの望む「良い子」を上手く演じようとしている。 こんな時、親は誤解をしてしまうものかもしれない。 テレビから離れてくれた、良かった、と。 ここはとても重要な判断のしどころだと思った。 思い返すと、自分自身が子供の頃、周囲の人の目を受けて、それに合わせて言動していたように思う。 これはある程度人間の本能だと思うが、内向的な子供には特に顕著に表れる気がする。 テレビから引き離すことが目的なのではなく、子供の心がいつも潤いを保っているという内的な状態こそが、大切なはずなのだ。 そう思って、「観ようか」と誘いかけてみたら、目を輝かせて「みたい」と言う。 それじゃあ、と一緒に、何度目かになるアンパンマンの映画を観た。 子供は毎回、初めて観るかのように夢中である。 それが終わってから、公園に出かけた。 多分、その順序と流れが良かったのだ。 インドア派で、行動控えめで、やや潔癖症のこの子が、珍しいことに、土の上に寝転がり、枯れ葉の山の中に埋もれて遊んでいた。 それを見ていると私の心も晴れ晴れと広がるようで、楽しく二人で夕暮れまで遊んだのだった。

『流れる星は生きている』

『流れる星は生きている』という本を、読み終わった。 内容の重さ、厳しさ、辛さから、数年越しの挑戦、三度目にして、ようやく、である。 著者は藤原てい。 小説家の新田次郎の妻で、数学者の藤原正彦の母。 敗戦直後の満州からの命懸けの逃避行を綴っている。 戦争の話だから、勿論明るくない。 陰惨、残酷、理不尽である。 同じく戦争を描いた本に『生かされて』があるが (ルワンダ内戦) 、この本は絶望の中に見出した希望、救済、信仰、そして赦しが中心的なテーマになっている。 つまり歴史の悲劇を題材に取った教えの書である。 同じくフランクルの『夜と霧』を読めば、人生に対する姿勢を丸ごと改めたくなる。 特攻隊員を見送った老女の伝記である 『ホタル帰る』という本は、菩薩の慈悲とはこういうものかということを、一人の人間の行いから示してくれるし、 『散るぞ悲しき』という本は、硫黄島で玉砕した一隊、特にその指揮官の姿から、こうして守って頂いたこの国を大切にしたいとの思いを抱かせてくれる。 どれも心からお勧めしたい本である。 こうした本と比べた時、『流れる星は生きている』には一切の救いがない。 ただただ、辛いのである。 起きた外的事実そのものが辛いのは言うまでもない。 しかしそれ以上に辛く思われたのは、人の心が鬼になる、その内的、精神的な真実だった。 母が子を連れて死の恐怖から逃げようとする時、もう歩く力もない我が子を、母はそれこそ賽の河原の鬼のように叱り飛ばし、怒鳴りつけ、蹴りつけまでして、歩かせる。 言葉使いももはや女のそれではなくなる。 それは個人を超えた、本能の発露らしい。 「子供を生かしたい」も「自分が生きたい」も渾然一体となり、ただ剥き出しの生への渇望だけが残る。 時によりそれは入れ替わり、場合によっては「子供になど構っていられない」という思いに心が支配されもする。 「恐ろしい」では到底足りない精神の地獄である。 こういう精神状態を私たちは恐れ、ほとんど嫌悪する。 自分の中にそんな感情があると知らず、そのような人を見たらありえないことだと批判する。 しかし、である。 気になる人は、この本をぜひ読んでほしいと思う。 すでに述べた通り、読んでも少しも前向きな気持ちにならず、教訓もない。 しかし私は、例えばだが、絵を描く時、どれだけ大胆に黒を入れられるかが絵の命をある程度決定すると考えている

最近の読書生活

最近、あまり本を読まなくなった。 この3年ほどは破竹の勢いで本を読み続け、ある年は年間150冊も読んでいた。 学んでこなかった生理学/整体分野、食わず嫌いだった自己啓発系、知ったつもりになっていた霊的方面(変なのも含む)、勉強不足だった歴史学、生物学、ずっと手を付けずにいた古典などなど…。 遅れを取り戻すように、よく読んだ。 一人暮らしになったことで回帰した、15年ほどぶりになる「毎日読書する」という日々だった。 それが冬の始め頃、にわかに「もういいか」という気持ちになった。 勿論、知らないことは無限にある。 しかし知らないことを減らしていけば良い訳ではないし、それより何より最近の私は、静けさを感じ、保ち、静けさの中で生きることに喜びを見出すようになっている。 『老子』に 「学を断てば憂い無し」 という一節があるが、ようやくその深く意味する所が分かってきた。 学ぶと得るものも沢山あるが、それと引き換えに心の海の水面に引き上げられてしまいがちである。 例えば特に時事問題。 一方の 心の海の底近くには何があるのかというと、感じる、味わう、ということがある。 両者はなかなか両立しがたい。 過去を振り返ると、必要な知識というのは目を背けていてさえ自然と目に飛び込んできて、心に染み込んできた。 それは今もそうだし、これからもきっとそうだ。 わざわざ自分から得に行く必要はないのだろう。 今はきっと壺の中にすべての材料が投入され、撹拌を終え、蓋をして醸造・発酵を待っている人生の時。 パンを捏ねる者として先刻承知のはずのこと。 こんな時、余計なことをしてはいけない。 じっと膨らみを待つことだ。 昔は気忙しくて出来なかったことだが、今はそれが楽しく味わい深い。 ゆっくりと、気が向くと『赤毛のアン』を読んだり『万葉集』を読んだり(つまり「役に立たないもの」)… こういう時の過ごし方が味わい深い。

馬を水場に連れて行くことはできても…

  イギリスの諺に 「馬を水場に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」 (You can take a horse to the water, but you can't make him drink) というのがありますが… Iさんより 「今年の目標として、 「胆力をつける。肝がすわった人を目指す。」にしようと思いました。 まずは、子供のことでどうしても心配ばかりで、自分の理想を言ってしまってる。と感じました。 先日も「人のことはどうでもいい。俺は俺だ。」言われてしまい、またまた反省しました。 息子の体の事とか考え方など、親として心配で言ってるのですが、やはりそれは自分の考えであって、息子の考えではないと」 これは親から子への関係だけでなく、子から親、配偶者間、または友達同士、ヒーラーとクライアントの関係でも、とにかくひたすら当て嵌まることですね。 他人には決して立ち入れない領分があり、それを侵してまで「こうせよ」と言うことは出来ないものです。 いや、時には言うことも出来るし、言うべき時もあるでしょうが、それはよほど特別の時のこと。 自分の善かれに相手を押し込もうとするよりも、その人のことをありのまま受け入れることの方が、もっと大事なことと思えます。 たとえそれがその人にとって自滅的な(と「私には」思える)在り方だとしてもです。 なぜって、その人はそうあるべくして今そうなっているのですから。 これを弁え、自分を踏み止まらせる。 ここに、言われている「胆力」が関わってくると思います。 Iさん 「心配事が出てきたら真呼吸をしてお腹に意識を持ってくるようにしました。 そうしたら、楽になるような感覚がしました。 今もいろんな考えが出てきたら、すぐに解決しようとせず、ゆっくりとする様に心がけています。 そして、まずは自分の事や考えを優先に、周りに振り回されないようにしています。 今年はなんだか肝をすえなければいけないと思いました。今年もよろしくお願いいたします」 最近よく思うようになってきたのですが、「解決しよう」という発想が、多分良くないのです。 解決は 自然と されていくんですね。 関わるもの全ての力の働きによって。 更にはまた不思議な力の働きによって。 「こうしてああして 私が 解決しよう」と考える時、実は最も解決から遠ざかっているのではないで

安心の基礎は心の内にある

Kさんの体調が思わしくなかった。 ご自分なりに対処されていたのだが功を奏さず、ヒーリングをご依頼された。 根底には心の問題があると感じた。 「 体ではなく心の方をほぐしてみて下さい 。何か思い当たりませんか?」 と私は尋ねた。 「はい。今大きな悩みなのが、体調なのですが、以前長く鬱病になっていた時期があって、疲れが溜まってきたり、体調が悪くなると、また働けなくならないように、何とかしなくては!と危機感を持ってしまうクセがあって、それが逆に緊張やこだわりを生んで雪だるま式に自分を疲れさせてしまっている、というのが分かっていながら、直せていないのです」 ―という洞察を得られていることがまず素晴らしいのですが、私はこうお返事しました。 「「以前とは違う」ということを認識することが鍵ではないかと思います。 これは実際そうかというよりも、そういうふうに信じられるかどうか 、です。 もう以前のようにはならないし、今はもう大丈夫、と。 その上でゆったり構えるということが出来ると良いのだと思います」 状況は日々、とは言わないまでも年単位で確実に変わっている。 これを曇りなき心で把握し、自分に修正を加えていくことが大切です。 本当に、今の自分は過去の自分とは違いますからね。 「そういう自信のなさ、本当に自分の課題だと思います。 ありがとうございます。今向き合わないとならない課題に気づくことができました。 『安心した構え』みたいなものを作っていくことは他者と関わる上でも大切ですね」 「安心」の拠り所を、つい外に向けてしまいがちである。 でもやっぱり、安心の基礎は心の内にある。 良い意味で、理想を低くすると良いのでしょうね。 「これで何とか回っているのだから、これで大丈夫」と。 すると、ほのほのと深い所から新たな力が湧いてくると思います。 実際、Kさんの場合はそれによって、首〜肩の緊張が軽減するようです。

子供の眼力

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子供と一緒に学んでみたい 。 子供と同じ目線に立つと、今までとは違ったものが見えそうだ。 そこで恐竜図鑑を買った。 これを見ながら絵を描こうと思った。 トリケラトプスがどんな姿をしているか、漠然とは知っていても確かに思い描くことは出来ないものだ。 *なんとトリケラトプスには嘴がある。 更に欲を言えば、こんなふうにすることで、子供に、絵を描くという行為に親しんでほしいとも思っている。 昔聞いた印象的な話。 父親がアメリカ人、母親がドイツ人の子供が、 「子供の頃には男は英語、女はドイツ語を喋るものだと思っていた」 そして当然のようにバイリンガルになった。 こんなふうに、あらゆることを当たり前のこととして世界観に取り込んでいくのが子供というもの。 かと言って、絵を描く習慣を子供に押し付けたい訳ではない。 子供が喜ぼうと喜ぶまいと、私自身が自分のために描いている。 *とうちゃんちより大きいブラキオサウルス 私は欲張りなので、もう一つの願望を持っている。 細部を描くことで、子供の目を細部に促せるかもしれない、と。 教育パパである。 しかし私はまったく子供の認識力というものを過小評価していた。 上の絵を見て、「ティラノサウルス」とすぐにまどかは答えた。 驚いた私は次の絵を見せた。 「ステゴサウルスのしっぽ」と即答。 細部にも目が行けば…なんて思っていたのは、全く私の思い上がりだった。 細部が見えていないのは私の方だった。 ステゴサウルスの尻尾がこんなふうになっているなんて、図鑑で見て、自分で描くまで知らなかった。 子供は全体を見ているようで細部も実に正確に見ているのだ。 子供の心に近付いて、子供と同じように世界を見てみたいものである。 *恐竜の練習帳の見返しの頁

ブログ移転

2023年3月に note にブログ投稿の場を移したのですが、年改まり、ふと古巣に戻ろうかという気になりました。 理由1.note のパソコン版のUIがイマイチ。 理由2.コメントが非常に見づらい。 理由3.note に見込んだ成果が得られなかった。 2については昨日、読者の方から改めて頂いたご意見で、「然り」と思いました。 お気付きの方もいらっしゃったかと思いますが、そもそも note はコメントを発見しづらい仕様なのです。 精神世界の秘境たるアトリエこしきに集う方々におかれましては、時には朋友の言葉も覗きたかろうというもの。 その点、note は痒い所に猫の手すら届かない感じでした。 この blogger ではそれが解消されます。 コメントの手続きには少々の手間がかかる場合があるかもしれませんが、そこはご容赦頂いて、記事を読んで感じたことなど、是非お聞かせ頂ければと思います。 私も嬉しいですし、読者の他の皆様にも、励みや良い刺激になることでしょう。 パソコン版、スマホ版共に、 画面左上の〈Ⅲ〉(を横にしたの)を開いて頂くと、新着コメント一覧を確認することも出来ます。 (→バグだろうか。出来ない) まずは試しに一言、是非どうぞ! なお 3.note に移ったのは、少しは読者が広がるかと期待してのことだったのですが、やはりそこは精神世界の絶海の孤島の主。 そのようなことは起こりませんでした。 となれば、やはり自分らしく密やかに言葉を綴ることこそ自然体で良いのかもしれません。 というわけで、再びの blogger です。 大変お手数ですが、ブックマークをして頂いて、明日からもまたよろしくお願いします。 レイアウト、文字サイズその他、ご不便があるようでしたらお知らせ下さい。 note記事(2023/3-2024/1): https://note.com/atelierkoshiki 更にその前の blogger(2020/6-2023/3): https://atelierkoshiki.blogspot.com/ 更にその前のは…もう忘れちゃった。 ホームページ: https://www.microcosmo-healing.com/ 【スケジュール】 1月11日(木)山羊座新月 1月26日(金)牡牛座満月 【メニュー】 ①カウンセリング 10000円 ②ヒーリング 

先祖というルーツが接近してくる時

先祖/家系というテーマが接近してくることがある。 私の経験から言うと、それは自己実現/霊的成長が加速している又は一段階先に進もうとしている時。 Sさんの談。 最近叔母と付き合いが増えており、知らなかった祖父母などの話を聞かせてもらうと、自然派志向な祖母の影響も、直接のやり取りはあまりなかったにしろ私に影響があったのかもしれないなぁと思いました。 これが一体何なのかと言うと…、 多分Sさんはご自分の自然派志向を自分一代のもの、一年草のようなものだと思っていたのではないかと思う。 そう考えている時、自信を持つことは難しい。 親と正反対のことをしていたりすると、特にそうだ。 私なんかも、一族の中で一人だけヒーラーなどという生き方をしているので誰の理解も得られず、時々寄る辺なく感じることもある。 仮に「実はウチにも先祖にヒーラーがいたのだ」ということが明るみになったらどうだろう。 自分は歩むべくしてこの道を歩んでいるのだ、と、ごく自然と感じることとなり、それは大きな追い風となることだろう。 つまり、ルーツの発見です。 神様=潜在意識の手順は決まっている。 1.まず自分ひとりの力でやってみなさい 2.それが出来たら、あなたはひとりじゃないことを教えてあげよう これは超重要な知識ですよ。要暗記! こういうふうに先祖が接近してきている時、背中に変調を覚えやすい。 それ自体は不快で、勿論場合によっては悪い形で接近してきていることもある(それについてはまたいずれお話する)けれど、このように 身体は自我より先に、自我より深く状況に反応している ということがある。 これが「背骨と肩甲骨の間の違和感」から引き出された話。

Sさんの不定愁訴と霊的要因

いわゆる不定愁訴と言われるもの。 Sさんは「自分の内側が外側部分と一瞬ズレるような感覚がたまにある」のだとか。 これだけだと何とも言えないのだけれど、多分問題はない。 感度が高まっているからこそ、覚えることの出来る違和感 というものもある。 人間の身体、というか存在は本当に不思議なので、謎めいたことは沢山起きる。 謎めいたことに開かれていることは、幸いです。 感度が高まってるのは、ありがたい事です。日々の意識がけでも全然違う結果になるんでしょうね。カワベさんがブログ毎日書いて下さってるお陰でもあります。改めて、感謝致します🙏 早速、昨日の記事に書いたことにお返事を頂いたようで、嬉しいです。 感度を高めることこそ、きっと私が一番大切にしていること、皆様にも促したいことなのだと思いますので。 さて、別件で「右肩甲骨と背骨の間に寝違えのような痛みがたまにある」とのこと。 症状には物理的なものと霊的なものがあり、配分は0から100まで様々。 今の時期には寒さも大いに影響してくる。筋肉が強張りがちなので。 その上で、霊的には 当該の箇所は、先祖/家系から来る ことがあります。 ただしここで注意点。 体は常に自我より先に、自我より深く、状況に反応している。 だから「先祖? うーん、特に思い当たらないな」ということはよくあること。 霊的説明なるもののもどかしい所だけれど、「分かっていようといまいと」みたいな所がある。 だから、霊感商法も成り立ってしまうんですけれどね。 しかしSさんにはちょっと心当たりがあったようだ。 最近叔母と付き合いが増えており、 知らなかった祖父母などの話 を聞かせてもらうと、自然派志向な祖母の影響も、直接のやり取りはあまりなかったにしろ私に影響があったのかもしれないなぁと思いました。そういう事も今日の診断に出てるのかもと思いました😌 これについて、明日続きを書こうと思う。