馬を水場に連れて行くことはできても…
Iさんより
「今年の目標として、「胆力をつける。肝がすわった人を目指す。」にしようと思いました。
まずは、子供のことでどうしても心配ばかりで、自分の理想を言ってしまってる。と感じました。
先日も「人のことはどうでもいい。俺は俺だ。」言われてしまい、またまた反省しました。
息子の体の事とか考え方など、親として心配で言ってるのですが、やはりそれは自分の考えであって、息子の考えではないと」
これは親から子への関係だけでなく、子から親、配偶者間、または友達同士、ヒーラーとクライアントの関係でも、とにかくひたすら当て嵌まることですね。
他人には決して立ち入れない領分があり、それを侵してまで「こうせよ」と言うことは出来ないものです。
いや、時には言うことも出来るし、言うべき時もあるでしょうが、それはよほど特別の時のこと。
自分の善かれに相手を押し込もうとするよりも、その人のことをありのまま受け入れることの方が、もっと大事なことと思えます。
たとえそれがその人にとって自滅的な(と「私には」思える)在り方だとしてもです。
なぜって、その人はそうあるべくして今そうなっているのですから。
これを弁え、自分を踏み止まらせる。
ここに、言われている「胆力」が関わってくると思います。
Iさん「心配事が出てきたら真呼吸をしてお腹に意識を持ってくるようにしました。
そうしたら、楽になるような感覚がしました。
今もいろんな考えが出てきたら、すぐに解決しようとせず、ゆっくりとする様に心がけています。
そして、まずは自分の事や考えを優先に、周りに振り回されないようにしています。
今年はなんだか肝をすえなければいけないと思いました。今年もよろしくお願いいたします」
最近よく思うようになってきたのですが、「解決しよう」という発想が、多分良くないのです。
解決は自然とされていくんですね。
関わるもの全ての力の働きによって。
更にはまた不思議な力の働きによって。
「こうしてああして私が解決しよう」と考える時、実は最も解決から遠ざかっているのではないでしょうか。
代わりに「これは解決されていくだろう。その中で自分に与えられている役目を果たそう」くらいの考えが良いのかもしれません。
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