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インナーチャイルド

良い所を見せようとして、まどかが押し入れから落ちた。 その時の様子が面白かった。 「おててがいたくてうごかないよ。おててのほねがおれた」 ぽろぽろと涙を零しながら言う。 どこで覚えたのか、気の毒に思いながらも笑ってしまった。 こういう時は宥めるよりも気分を変えてしまった方が良い。 取っておきの秘技を繰り出すと、すぐに楽しく笑い始めた。 もちろん、骨は折れていなかった。 それにしても、痛みや苦しみを感じた時、心は何と速やかに赤ちゃん返りすることだろう。 「こんなかわいそうなぼくをみて?」という声音が、滲んでいた。 苦しみに直面した時、大人の私たちもまた、やっぱり子供返りしそうになる。 「できないよお、くるしいよお」と心は言い始める。 大人はそれを諭すことが出来る。 心の中の大人が育っていると、「泣いても仕方ないのだから。ほら、前を向こう」と言える。 または私がまどかにしたみたいに、注意を他に向けさせることが出来る。 「大丈夫大丈夫。それより楽しいことをしよう」と。 考えてみると、そういうふうになるために、何年も十何年も過ごしている気がする。 以前の私は、内なる子供が泣き始めると、それに簡単に支配されてしまった。 インナーチャイルドについては、普通、認識して抱き締めてやるべき、と言われる。 私自身、そういうことはとても大事だと考えている。 しかし何事も匙加減で、 問題を必要以上に深くしないという態度も、やっぱり大切だ と考える。 子供が「ほねがおれた」と言っても、本当に折れている訳ではない。 子供=インナーチャイルドの痛みを〈軽視する〉という意味ではなく、〈軽くしてやる〉こともまた、大人にしか出来ないことであろう。

自他の境界線

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公園で、まどかと遊んでいた。 「かくれんぼ、しよう?」とまどかが言う。 私は目を手で閉じる。 まどかはがさごそと動いている。 「もういいかい?」とまどかが言う。 いやいや、それを言うのはこっち。 しばらくすると「もういいよ」とまどかが言う。 目を開けてみて、思わず笑う。 ベンチの陰に隠れているつもりなのだろうが、丸見えである。 自分の目を隠せば、他の者の目も利かなくなると思っているらしい。 少し間を開けてから、 「みーっけ」 まどかは喜んで、もう一度試みる。 一人二役分の「もういいかい。もういいよ」の後、目を明けると、今度はあろうことか砂場のど真ん中にしゃがんで目を一生懸命閉じている。 自分が目を閉じていれば世界もまた目を閉じていると思っている。 〈自他の境界線〉と言うが、私たちの心はその始まりにおいて、こんなにも境界線のない世界に生きていたのかと知って、驚かされた。 何と無垢なものではないか、心というものは。 子供の移ろい易い成長の過程。 ちょっと難しいものを感じていた近頃だったが、良い感じになってきた。

子供に諺を仕込む

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そろそろまどかの教育を始めよう、と思った。 4歳。知的能力は既に開花を始めている。 そこで諺を覚えさせることを始めた。 どうやったら促せるものかと思ったが、全く難しくなかった。 「犬も歩けば棒に当たる。言ってごらん?」と誘いかけると、何度か繰り返した後すぐに復唱出来るようになった。 もう少し成長した後では「ああ、うるさいな、また親父が何か言い出した」となるのだろうが、そんな反発心は今はまだ芽生えていない。 今の内に、父親とは言葉遊びをするものだ、という土壌を形成しておく。 すぐに復唱することの楽しさに気付いたようで、私が教える諺を次々と覚えていって、その数、十に及んだ。 子供の心は具象の世界に留まっている。 だから動物が出てくる諺は覚えやすい。 猿が木から落ちたり、犬が棒に当たったり。 一方、概念で成り立つ諺は覚えにくい。 後者の諺はもう少し時を経てから試みるが、「楽あれば苦あり」は覚えさせることが出来た。 子供に、色々と言って聞かせなければならないことがある。 そんな時「楽あれば苦あり」の一言は、魔法のように働くことだろう。 その効用があればこそ、先人たちはこの言語的遺産を私たちに伝えてくれた。 子供はただ純粋に、新しく 初めて知ることを楽しんでいる。 諺を教えることは、初め、私にとって教育意図を持ってのことだったが、子供はそれを、口の中で動かすおもちゃにしてしまった。 こうして二人で遊べる新しいおもちゃが出来た。 やがて教える題材が故事成語になり、和歌になり、祝詞になるかと思うと今から既に楽しみである。 アンパンマンミュージアムに行く道々も。

『アイスの国のバニラ姫』

先日 『いのちの星 のドーリィ』 についてお話したが、今日はまた別のアンパンマンの映画作品 『アイスの国のバニラ姫』 についてお話をしてみよう。(2019年作品) この作品を観て私はつくづく、人の悩みは世につれ、だな…と感じた。 どういうお話かと言うと、ある所にアイスクリームの国がある。 そこの姫にはアイスクリームを作る使命があり、大臣の監督の下、日夜練習に勤しんでいるがいまだ成功していない。 嫌になって王国を飛び出しアンパンマンの町に至る。 そこでバイキンマン絡みで色々あって、最終的にアイスクリームを作れるようになることで諸々の問題が解決される、という顛末なのだが、この姫がなぜアイスクリームを作れなかったというと、 そこに喜びがなく、悲壮な使命感しかなかったから なのだった。 どんなに頑張っても、彼女の魔法のスプーンからはアイスクリームも一欠片さえ生まれ出ないのだった。 いくつかの会話を通してバニラ姫は、自分には〈したいこと〉がないこと、〈すべきこと〉しかないことを自覚する。 そして、したいこともなく、すべきことも出来ない自分には価値がない、と彼女は感じる。 印象的だったのは「ここの皆は楽しそう…」と姫が呟くシーンである。 これはアンパンマンの歴史として、なかなか無視し難いものではないだろうか。 というのは、アンパンマンの世界では皆が楽しんでいるのは当たり前すぎるほど当たり前のことで、そのような状況に対して驚くような者はかつて誰一人としていなかった(これまで観た限り)。 バイキンマンだって、自分の悪行を心から楽しんでいる。 言うまでもなく、姫のこの独白は、この数十年間の日本人の精神世界の変質を映しているものだろう。 私が子供だった頃のアンパンマンには、自分自身の価値を問う、このような内面的な問いはなかった。 誰もその内面において虚無ではなかった。 時代につれ、アンパンマンの世界も変質してきているのだなあと感じた。 決してこの映画作品にケチをつける訳ではなく、こんな問い自体が子供の心に生まれない世界になってほしいと思った。

子供の心と〈他者〉

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月に一度以上の頻度で会っている姉だが、我が子まどかに会うのは二年ぶりのことだった。 その時の様子が面白かった。 外部から人が来たので、勇んで〈自分の〉色々なものを見せたがった。 「あとね、こんなのもある」と言って、普段は目もくれないようなものまで取り出しては姉に誇らしげに見せている。 お父ちゃんにも見せたことのない、〈へんしんポーズ〉なんかもして見せる。 なるほどなあ、と思った。 こうして、 人は他者に会うことによって自分を輝かせることを欲するのだ 、と。 そしてその自己主張はまったく本能的なものなのだ。 おとうちゃんとの間では、情報を充分に共有している。 そこには当然ながら、自分を示すべき〈他者〉が存在しない。 時間の全てが〈自己〉というようなものだ。 他者との出会い、他者と過ごす時間こそが、自分が何者かということを自分自身に教えてくれる。 考えてみたら、それはすっかり自分にも当て嵌まることだった。 しかし他者というなら誰でも良い訳ではない。 「おとうちゃんのおねえちゃん」だったから上のような反応になったので、見ず知らずの人だと拒絶的になる。 先日はご近所の方とお話していたら「おはなししないでえ」と言って泣き出したし、公園では知らない子供との間に明らかな心理的距離を取っている。 自分を好きになってくれる確かさのある相手にだからこそ、「ぼくの」全てを見せたくなる。 これもやっぱり、自分にも当て嵌まることだと思った。 明日は乙女座の満月です。 ヒーリングのお申し込みをお待ちしております。 【スケジュール】 2月24日(土)乙女座満月 3月10日(日)魚座新月 3月20日(水)春分 【メニュー】 ①カウンセリング 10000円 ②ヒーリング 10000円 ③リモートカウンセリング 7000円 ④遠隔ヒーリング(お布施) ヒーリングアクセサリー 「プレローマ」 36000円 【お問い合わせ下さい】 ①LINE:atelierkoshiki ②microcosmo.healing@gmail.com ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ホームページ: https://www.microcosmo-healing.com/

「ひみつきち」

まどかが泊まりに来た。 今月2回目、しかも今回は延泊して、二泊三日となった。 子供に好いてもらえて嬉しいことだが、同時にこの少ない機会を通して、彼を導き、癒やし、勇気づけてあげたいとも思う。 この時分の子供の心は可塑性(*)に富んでいる。 (*外部の力によって生じた変形が永久に持続する こと) というか可塑性そのものである。 心の全容を観察しながら、状況ごと、テーマごとに、教えたり、黙認したり、励ましたり、戒めたり、本当に絶妙微妙なコントロールが求められるのを感じる。 それはさておき。 まどかは押入れを「ひみつきち」にすることを覚えた。 とても気に入ったようで、押入れの中で一緒に色々な遊びをした。 面白いものである。 この家に暮らして25年ほど、押入れの中でこんなに長い時間を過ごしたことはなかった。 住み慣れた家の中にも、未知の領域がある。 子供が帰った翌日、押入れの整理をした。 せっかくの秘密基地なのだから、上段も下段も彼専用にしてあげようと思った。 おかげですっきり片付いた。 何年もの間、時が止まったかのようにそこにあり続けたものが、あっさりと動いた。 新しく明るいエネルギーは、古く淀んだ時間を動かしてくれる。 ついでに玉突きのように、あそこもここもと整理の手が及んだ。 反省した。 なぜこうもいつまでも「完璧」と思えるまでに整理が出来ないのか。 言うまでもなく、自分の性分のせいである。 スペースがあるとすぐそれに甘える。 不要のものを取っておいたり、決定できないものを惰性で留保する。 そういう精神構造は本当に良くないもので、この数年は回り回って何度もそこにメスが入っている気がする。 まだまだである。 反省しつつ整理をすると、当たり前のことだが家の空気も軽くなったように感じられた。 明後日は乙女座の満月です。 ヒーリングのお申し込みをお待ちしております。 【スケジュール】 2月24日(土)乙女座満月 3月10日(日)魚座新月 3月20日(水)春分 【メニュー】 ①カウンセリング 10000円 ②ヒーリング 10000円 ③リモートカウンセリング 7000円 ④遠隔ヒーリング(お布施) ヒーリングアクセサリー 「プレローマ」 36000円 【お問い合わせ下さい】 ①LINE:atelierkoshiki ②microcosmo.healing@gmail.com ー...

『いのちの星のドーリィ』

子供のおかげでよくアンパンマンを観る。 先日は 『いのちの星 のドーリィ』 という作品を観て、感動の余り泣いた。 皆様にも是非観てほしいものだが、大人がアンパンマンを観る時間はなかなか無いと思うので、代わりに私が、 どんなお話だったか簡単にご紹介しよう。(2017年作品) ある時、捨てられた人形が洋上を漂っていた。 アンパンマンはそれを拾い上げて、パン工場に持ち帰る。 人形には心が宿り、自分で動くようになる。 この人形、ドーリィは「生きている」ことに感動し、色々なものに夢中になる。 やがてピノキオの例にもある通り、自己中心的で傍若無人になる。 幼稚園の友達は一人また一人と減っていき、最後には冷遇される。 ドーリィはアンパンマンに食ってかかる。 「自分はせっかくこうして自分の意志で生きられるようになったのだ、自分の好きなことだけして何が悪い。なぜアンパンマンは人のために働くのだ。そんなのは偽善だ」 それに対してアンパンマンは「誰かのために働くことは幸せなことだ。その人が喜んでくれた時、自分も幸せになる」と答える。 ドーリィには理解できない。 同時に、自分はやりたいようにやっているだけなのに、どうして皆に冷遇されるのか分からず、初めて寂しさを覚える。 実はドーリィには時限的な生命が与えられているに過ぎず、心を閉ざすにつれて生命の火は弱くなっていく。 自分が再び動けない人形に戻ってしまうことを予感して、絶望的な気持ちになる。 それからバイキンマンが新型兵器を引っ提げてやってくる。 アンパンマンは身を挺してドーリィを守り、最後には石化してしまう。 この時に及んでついにドーリィは誰かのために生きることの尊さを知り、残りわずかな自分の命を与えることによってアンパンマンを復活させる。 ドーリィは再びただの人形に戻ってしまうが、宇宙の祝福を受けて、再生する。 しかし今度は高慢な女の子ではなく、心優しい子として蘇った。 という話なのだが、アンパンマンの主題歌の 「何が君の幸せ/何をして喜ぶ/分からないまま終わる/そんなのは嫌だ」 に対して、これほどまでに明確な回答を与えている作品は他になく(今まで観た限り)、その点で出色の出来となっている。 この作品には、確かに降りてきているものがある。 誰も死なないことになっているアンパンマンの世界の中で、 ドーリィという、 命に時間制限がかせられ...

「なんでもしってるんだよ」

まどかは色々なことを知っていて、色々なことが出来るので、 その都度驚かされる。 それで「凄いね、そんなことも知っているんだ」「そんなことも出来るんだ」と言うと、「まあちゃん、なんでもしってるんだよ」「なんでもできるんだよ」と言う。 その発言を頭の中で再生させ、しばらく転がしていたら、神についての理解が一つ深まった気がした。 神は全知全能かそれに近い何者かであると私たちは素朴に考える。 そこに理屈は要らない。 その全知全能ゆえに、私たちは神を、親に類したものと考えがちである。 しかしもしかしたら「なんでもできる」「なんでもしってる」という子供時代の自然な自己評価――これこそが私たちに、「神を知っている」と思わせる記憶、心の故郷の真実なのではないだろうか。 ここに、大人の延長としての神ではなく、子供の姿をした神の姿が浮かび上がる。 成長するにつれて、現実には自分は何でも出来る訳でも知っている訳でもなく、それどころか、つくづく無力であることを理解するようになる。 心の故郷、神から離れ、人間の道を歩むようになる。 古来、子供は神に近い存在とみなされてきた。 「自分は全知全能である」とか「自分には制限がない」という自己認識に留まっていることが、神と子供の共通項なのかもしれない。 してみると、成長し大人になった私たちが、「自分は全知全能だ」とは言わないまでも「自分には制限が(本当は)ないのだ」と知ること、心新たに挑戦したり、遊んでみたりすることこそは、神に還る道と言えるのではないだろうか。

子供の記憶

先月末にコロナを発症し(この日本語は変だと思うのだが)、辛いの自体は4日ほどで終わったのだが、その後、舌に異変が生じてこれが収束するのにその後2週間近くもかかった。 さながら火傷か切り傷のようで、ウイスキーを飲んだら火を吹くかと思った。 夜に一気に体温を上げたいらしく、寝汗も随分よくかいた。 何が起きていたのか分からないが、体はこんなふうにして戦い、戦いの後処理をしているんだなあと、改めて感心した。 それにしても自分は忘れっぽい。 よくあることだが、他人の方が覚えてくれている。 「この前の時も大変だったよね」と姉に言われ、それがいつのことだか、何が起きたのか思い出せなかった。 先月のコロナ不調でさえ、具体的にどういう症状だったのか早くも既に記憶がない。 私の忘れっぽさはどうも母譲りなのだが、こういう人間の記憶回路はどういうことになっているのだろうか。 記憶と言えば、面白いことがあった。 まどかが最近言ったことなのだが、赤ちゃんの時、ミルクを飲んでいたか思い出せないと言った。 ほお、と思った。 その語り出しは、「おぼえてないことがあるの」だった。 記憶空間が暗闇だとしたら、そこに向かう記憶呼び出しの働きかけはスポットライトを当てるようなものかと思う。 子供には子供なりに小さな記憶空間があり、その中をよく探したけれど見つからなかった、という印象がよく伝わってきた。 私は自分自身に4歳くらいまでの記憶がないから、子供はどんなふうに内界を見つめているのだろうかと、とても新鮮に思われた。 人間の心は、本当に不思議なものである。

寝物語

まどかは生活のリズムが整っているらしく、午後9時くらいになると、「もう、ねよう」と自分から言う。 布団に入ると「おはなしして?」と言う。 アンパンマンが好きなので、そのお話をする。 小さなお話をいくつかする。 一つのお話が終わると、 「つぎはおむすびまんのおはなしをして?」というふうに続く。 目を輝かせて聞いている。 そのくせ、話の終わりまで来て、「おしまい?」と聞き、「そうだよ」と私が答えると次の瞬間にはもう寝息を立てている。 真似しようにも出来ない芸当。 子供とはこのようなものかと感心する。 寝物語の楽しさというのは、本能的なものなのだろうか。 次またその次とお話を求めるその姿は『千夜一夜物語』に通じる所がある。 さしずめ私はシェヘラザードだが、眠気が勝って敵わない。 それなのに、子供が眠りに落ちると入れ替わりに目が冴えてしまって、その後暫く眠れない。 その横で、子供はずっと寝息を立てている。 自分自身もまた、寝床に入ってから読むのに楽しい本があると、そんな夜を心待ちにしている。 お話を聞かせてもらう喜びは、大人になっても消えることがないようだ。 読みたい本がない夜には、眠るまでのひとときは物足りなく思われる。 なぜなのだろう? なぜ眠る前に、人は物語を聞きたくなるのだろう。 本当に不思議なことである。 最近では、田辺聖子が訳した『今昔物語』がとても面白かった。 まさに夜にお話してもらうのにうってつけだった。 それとラリー・バークダルの『ナゲキバト』。 これは本当に素晴らしい宝物のような小説である。

水瓶座新月(と何の関係もない話)

先日お店でまどかにソフトクリームを食べさせていた。 離れた席に座っていた子供がぐずぐず言って、お母さんに叱られていた。 まどかは言った。 「あのこ、なきそうだね。まいにち、いやなことでいっぱいなのかも」 感心した。 「毎日嫌なことでいっぱい」だなんて言葉の組み合わせをできるほどになったのかと思った。 何に感動したのか未だによく分からないのだが、とにかくとても印象的な発言だと思われた。 多分… 「今、泣きそうである」という瞬間の様子から「いつも泣きそうである」というその背後の持続的状態に推理を向けたことに、感心したのかもしれない。 私は尋ねた。「まあちゃんはどう? 毎日嫌なことでいっぱいじゃない?」 「まあちゃんはね、まいにちいやなことでいっぱいじゃないよ。でもときどきいやなことがある」 「それは何」 「こないだは、(多分レゴなど)うまくつくれなかったときに、くやしくて、ないちゃったんだ」 何とかわいらしいことよ。 そう思って我が身を省みると、年中ピアノで躓いても、悔しくて泣きやしない。 大人だから当たり前とも言えるが、子供のきらめくような心を前にして思うのは、単に鈍感になっただけなんじゃないかということ。 考えたら、一芸でプロになるような人は、上手く行かないと悔しくて泣くくらいの繊細の心を持っているのではないかという気がする。 それくらいだからこそ一流になるのではないか。 次は私もピアノで悔しがってみることにしよう。 最後に、大笑いしたこと。 「こんなさむいひにつめたいものたべたら、おなかこわれちゃうよね。 バラバラに。 ほねまで」 大笑いした。 全然関係ない話でした。 今日は水瓶座の新月です。 お申し込みをお待ちしています。   【スケジュール】 2月10日(土)水瓶座新月 2月24日(土)乙女座満月 【メニュー】 ①カウンセリング 10000円 ②ヒーリング 10000円 ③リモートカウンセリング 7000円 ④遠隔ヒーリング(お布施) ヒーリングアクセサリー 「プレローマ」 36000円 【お問い合わせ下さい】 ①LINE:atelierkoshiki ②microcosmo.healing@gmail.com ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ホームページ: https://www.microcosmo-healing.com/

時よ止まれ 1

時が止まってほしい…などと言うと、何やら重たげである。 しかし最近、「時が止まってほしい」と思うことがある。 子供の知性は日に日に進化していく。 興味の対象は変わっていく。 まどかはかつて、犬のおもちゃで飽きもせず遊んでいたものだった。 そのおもちゃには車輪がついており、前後に転がすとオルゴールが『となりのトトロ』のテーマを奏でる。 これをころころと床の上で動かしていたものだが、 今はもうそういう遊びはしない。 また以前には、お米やお水を、右のボウルから左のボウルに移し替えるという遊びを、これもまた飽きずにしていたし、階段を何度も上り下りした ものだった。 私たちにとって、階段は目的地に至るための手段でしかないが、 子供にとって階段はそれ自体が目的だった。 このような遊びには終わりがなく、その意味で無限の時間に属していた。 より成長した子供の知性は、終わりのある遊びを求めるようになる。 それはゴールであり、達成の喜びが、永遠の中に佇む喜びに取って代わるようになる。 そしてこの成長発展を更に続けていくと――現在の私たちになる。 変化のないことにはすぐに退屈してしまい、「で?」と次を促す。 「時が止まってほしい」と言っても、もちろん、子供の成長を望んでいないという意味ではない。 多分、本当のところは、何より自分自身に対してそう感じているのだ。 自分は犬のおもちゃを前に後ろに転がすだけで楽しめるような心を失っている。 そのことで大切な何かを見落としているからこそ、そのような在り方を今暫く見せてくれそうな子供に対して、時が止まってくれることを望んでいるのだろう。 沈む夕日に対して「あと少し」と願うようなものかもしれない。 「今している遊びを、楽しんでいるか?」 私はこの問いを、ピアノを弾く時に特に自分に投げかけている。 とても難しい。

バイキンマンについて考える 2

バイキンマンの行動原理について考えてみた。 彼は誰かが楽しそうにしていたり、感動していたり、美味しいものを食べていたりすると、それを不満に思い、ぶち壊しにかかったり、強奪を試みたりする。 することは全て「オレサマ」のためであり、他人のためには何もしない。 「オレサマ」を見てほしいのだ。 「オレサマ」をいつも最優先してほしいのだ。 特筆すべきは、彼はアンパンマンのことを「おじゃま虫」と言う。 「やめるんだ、バイキンマン!」 「出たな、おじゃま虫!」 お邪魔虫はおまえだろう、と誰もが思うが、ことほどさように世界認識というものは必ず自己中心的であり、またその意味で常に相対的なものである。  しかしバイキンマンはこれほどのエゴイストであるにもかかわらず、邪悪の印象を与えない。 何と言ってもあの笑顔はかわいい。 まどかもバイキンマンが好きである。 ふと、つまりこれは人間の心の芽生えを擬人化したものなのだと気が付いた。 まどかを見ていると、子供として当たり前のことだが、とても自己中心的である。 常に、とは言わないが、非常に多くの場合において、自分が最優先され、充分な注目と配慮が向けられることを望んでいる。 言うまでもないことだが、その求めは邪悪ではない。 ねじくれた、または病的な要求でもない。 人生の初期における、命のありのままの、自然の発露なのだ。 だからこそなのだろう。 バイキンマンが「オレサマが〜」と叫ぶ時、私たちには見た覚えのあることを、身に覚えのあることを思い出すのではないだろうか。 それが彼に対する、言葉にするまでもない赦しの源にあるのだろう。 そんなことを思った。

バイキンマンについて考える 1

子供が来ると、機関車トーマスかアンパンマンを一緒に観る。 機関車トーマスについては、ちょっと微妙だなと思う所がある。 それは有用性を強調しすぎること点である。 「役に立つ機関車であることを証明しなければいけない」 「役に立たない機関車はスクラップにされてしまう」 というような台詞が頻発する。 お国柄もあると思うが、どんなものだろうこれはと思う。 子供には、「役に立とうと立つまいと」ということを教えてやりたいものだと思う。 一方、アンパンマンは素晴らしいと思う。 特にバイキンマンが秀逸である。 バイキンマンはいつも悪さをする。 そしてアンパンマンにお仕置きされる。 しかし彼は凝りずにまたやってくる。 アンパンマンは悪を根絶しようとはしない。 アンパンマンの村(?)の皆の衆もまた、バイキンマンを懲罰または追放しようとはしない。 バイキンマンの悪口さえ言わない。 言葉でこそ語られないが、バイキンマンがいることを皆が許容しているのだ。 (改めて大人の目で見ると、バイキンマンはかなり本気で殺しにかかってくるので呆れるのだが…) まどかは言う。「どうしてバイキンマンはいつもいたずらしにくるのかな」 私は答える。「本当はアンパンマンたちと一緒に遊びたいんじゃないかな」 「きっとそうだね」とまどかは言う。 機関車トーマスの方にも悪いのがいる。 これがまたいかにも人相が悪く、邪悪な精神を宿している。 まどかは言う。「どうして〈いたずら貨車〉はいつもいたずらするのかな」 私は答える。「あれは性格が悪いんだ」 全然弁護する気にならない。 バイキンマンには愛嬌がある。 まどかもバイキンマンが好きである。 悪いやつなのに、憎めない。 こういうキャラクターの存在そのものに、陳腐なスローガンでは絶対に語ることの出来ない、本当の深い優しさを感じるので、バイキンマンの悪行から目が離せない。

心の中の、動物

先日子供が泊まりに来ていた時のこと。 食事前に「頂きます」を促したら、まどかは泣き出してしまった。 言いたくなかったらしい。 いつもは言っているとのことなのだが、その日はその気分にならなかったようだ。 考えてみると、食べる前に「頂きます」と言う生き物は人間だけである。 子供の中に(大人の中にも、なのだが)、〈人間の部分〉と〈動物の部分〉があり、その時は、動物の心が全面に出てきたのだろう。 彼が、家や保育園で、「頂きます」を無理に強制されているとは思わない。 皆がやっているので、自然と一緒にやっているはずなのだ。 しかしそうして社会化を進めていく心の最後尾にはいつも動物の心があり、「どうして?」という目で、暗闇の中から世界を見ているのかもしれない。 「皆がしているから自分もそうする」が、いつの間にか「皆がしているから自分もしなければいけない」になり、更にやがて「皆」という梁(はり)から脱した後までも「しなければいけない」という囚われだけが亡霊のように残る。 こんなふうにして、私たちは自分の心に多くの制限をかけていくことになるのではないだろうか。 勿論、最終的に人間はいつか、「頂きます」ということを当たり前のこととして身に付けていく訳だが、その内面にはいつまでも動物の無垢な心が残っていてほしいと思う。 それは魂の健全だから。 人間でしかいられない人間に成り果てるより、「自分は動物だけれど、人間としても生きているんだ」と自己認識できたなら、どんなに自由に、自然体で生きられることだろう。 「いただきますっていいたくないのお」と子供が涙をぽろぽろ零しながら言った時、心の根っこにある自然の故郷を見た思いだった。 存分にその思いを味わって、よく知って、それから「あるべき」という社会性を、静かに載せていくことが出来たら、本当に素晴らしいことだと思う。 彼はそのささやかな抵抗に満足したのだろうか、 次の食事の時には、私から言うのも待たず「いただきます」と言ってからまどかは美味しそうに食べ始めたのだった。 明日は獅子座の満月です。 ヒーリングのお申し込みをお待ちしております。 【スケジュール】 1月26日(金)獅子座満月 2月10日(土)水瓶座新月 【メニュー】 ①カウンセリング 10000円 ②ヒーリング 10000円 ③リモートカウンセリング 7000円 ④遠隔ヒーリング(お布施)...

「こわい」

時々、子供を公園に連れていくと、年上の子供たちの配慮に驚かされる。 そういう場面は、主に遊具で見られる。 遊具では、譲り合いが求められる。 先日は、揺れる吊り橋の上でまどかが固まっていた。 大きな男の子が一人、その遊具に登ってきた。 大丈夫かな、と思って見ていたけれど、その少年は、小さな子供にぶつからないように、更にそれだけでなく、無用に足場が揺れないように巧みに渡っていき、しかも「大丈夫でしたよね?」という目で私に振り返って確認した。 「ありがとう」と私は彼に言った。 なおも凍りついているまどかの側に、今度は女の子が二人やって来た。 7歳と10歳とのことだった。 「下を見なければ怖くないよ」 「網があるから滑って落ちても大丈夫だよ」 などとまどかにアドバイスを優しくしてくれる。 昔はこうだったかな、と思い返すと、どうも様子が違った気がする。 年長の子に(同い年の子にも)よく突き飛ばされていたような、遊具はより活発な子に専有されていたような気がするのだが… どうだっただろう、定かな記憶ではない。 とにかく言えることは、子供たちの中には、より小さな子供を保護しようという本能があるようだ。 私にはそれがとても美しいものだと思われ、胸を打たれる。 いつ、人はそういう気持ちを失ってしまうのだろう。 慈善事業というような大それたことではなく、今目の前にいる人に0円でできる親切を行うということ。 そこには多分、優しさだけでなく、無我ということが関わっているのだろう。 「どうしよう、助けようとして逆に迷惑がられたら」なんてことを、大人は行動するより先に考えてしまうものかもしれない。 子供はそんなことを考えないから、素直に助けの手を差し伸べられるのかもしれない。 優しくあることは本能だが、その表現を止める恐れは後天的なものなのだろう。 私は子供に話しかけられやすいらしく、その日もその女の子二人や、他の男の子と随分お喋りを楽しんだ。 2歳くらい子供は、わざわざリュックの底まで開けて、拾ったどんぐりを見せに来てくれた。 でもそのお母さんは腰が引けていて、知らない人から離れたくて仕方がない。 やはり恐れというものは後天的なものに違いないと改めて感じた。 だからこそ、「怖い」はそう感じるだけで、実際怖い訳ではないんだよ、ということを、子供に伝えたいと思っている。

「いいこ」

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子供の爪の様子がおかしいとのことで母親が気を揉んでいる。 けれどもしばらくは病院に連れて行く時間がないと言う。 そこで私が代わりに行ってやることにした。 案に相違せず何事もなかったけれど、診断を受けて母親は楽になったに違いない。 その日一日、私は子供と過ごすことになった。 子供は私の所に来るとずっとテレビ(に繋いだパソコンでアンパンマンなど)を観ている。 これをどうしたものかと考えあぐねていた。 時々来る場所だから、存分に甘えたいというような気持ちが働くのも分かる。 生活の場ではないのだから、あまり固いことを言いたくもない。 そこで基本的にかなり自由にさせているのだが、それでもやはりという限度がある。 外に連れ出すことにしているけれど、なかなかテレビの魅力には抗い難いようだ。 しかしその日は明らかに、テレビ以外のことで何かして遊ぼう、という素振りを見せていた。 ほう、と最初は思ったけれど、どうもこれは不自然である。 多分、私の意志に影響されて、自然の欲求を抑え込んでいるのだ。 とうちゃんの望む「良い子」を上手く演じようとしている。 こんな時、親は誤解をしてしまうものかもしれない。 テレビから離れてくれた、良かった、と。 ここはとても重要な判断のしどころだと思った。 思い返すと、自分自身が子供の頃、周囲の人の目を受けて、それに合わせて言動していたように思う。 これはある程度人間の本能だと思うが、内向的な子供には特に顕著に表れる気がする。 テレビから引き離すことが目的なのではなく、子供の心がいつも潤いを保っているという内的な状態こそが、大切なはずなのだ。 そう思って、「観ようか」と誘いかけてみたら、目を輝かせて「みたい」と言う。 それじゃあ、と一緒に、何度目かになるアンパンマンの映画を観た。 子供は毎回、初めて観るかのように夢中である。 それが終わってから、公園に出かけた。 多分、その順序と流れが良かったのだ。 インドア派で、行動控えめで、やや潔癖症のこの子が、珍しいことに、土の上に寝転がり、枯れ葉の山の中に埋もれて遊んでいた。 それを見ていると私の心も晴れ晴れと広がるようで、楽しく二人で夕暮れまで遊んだのだった。

子供の眼力

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子供と一緒に学んでみたい 。 子供と同じ目線に立つと、今までとは違ったものが見えそうだ。 そこで恐竜図鑑を買った。 これを見ながら絵を描こうと思った。 トリケラトプスがどんな姿をしているか、漠然とは知っていても確かに思い描くことは出来ないものだ。 *なんとトリケラトプスには嘴がある。 更に欲を言えば、こんなふうにすることで、子供に、絵を描くという行為に親しんでほしいとも思っている。 昔聞いた印象的な話。 父親がアメリカ人、母親がドイツ人の子供が、 「子供の頃には男は英語、女はドイツ語を喋るものだと思っていた」 そして当然のようにバイリンガルになった。 こんなふうに、あらゆることを当たり前のこととして世界観に取り込んでいくのが子供というもの。 かと言って、絵を描く習慣を子供に押し付けたい訳ではない。 子供が喜ぼうと喜ぶまいと、私自身が自分のために描いている。 *とうちゃんちより大きいブラキオサウルス 私は欲張りなので、もう一つの願望を持っている。 細部を描くことで、子供の目を細部に促せるかもしれない、と。 教育パパである。 しかし私はまったく子供の認識力というものを過小評価していた。 上の絵を見て、「ティラノサウルス」とすぐにまどかは答えた。 驚いた私は次の絵を見せた。 「ステゴサウルスのしっぽ」と即答。 細部にも目が行けば…なんて思っていたのは、全く私の思い上がりだった。 細部が見えていないのは私の方だった。 ステゴサウルスの尻尾がこんなふうになっているなんて、図鑑で見て、自分で描くまで知らなかった。 子供は全体を見ているようで細部も実に正確に見ているのだ。 子供の心に近付いて、子供と同じように世界を見てみたいものである。 *恐竜の練習帳の見返しの頁

「生きている幸せ」を学ぶ

  しばらく前から休み休み読んでいた『赤毛のアン』の最初の巻を、お正月中に読み終わった。 特に前半が好きである。 アンの瑞々しい感性に何度も声を上げて笑い、心の洗われる思いがした。 「なんて素晴らしい日でしょうね。こんな日に生きているというだけで幸せじゃないこと? それを逃すんですもの、まだ生まれていない人がかわいそうになっちゃうわ。むろん、その人たちにだって素敵な日は巡ってくるでしょうけれど、でも今日は二度と来ないんですもの。」 こんな思いで毎日毎日を生きられたらいいと思う。 健全に育った場合、子供時代に人間はこんなふうに感じるものなのだろうか。 一泊の予定の子供が二泊した。 夜、布団の中でお話をする。 最近はアンパンマンと機関車トーマスに夢中なので、私も新たに仕入れた知識を駆使してお話をしてあげる。 暗闇の中でまどかは私に顔を近付け、目を輝かせて聞き入っている。 (ほんとに幸せなんだね、生きていることが…) と思う。 寸前まで笑顔で、ふと気付くと寝息を立てている。 自分もこんなふうだったのだろうか、と思う。 それは分からないが、この30年くらいは絶対にそうではなかった。 最近、私は子供の心を学び直している。 少女時代のアンのように弾けるほどにではないが、静かな幸せを毎日感じている。 でもそれは「幸せになったから」ではなく「幸せに気付くように努力するようになったから」だと、自分では思っている。 幸せは誰かがくれるものではなく、見出すものであり、または聞こうとすると聞こえる音のようなものなのだ。 鳥の声に似ている。 鳥は割といつも鳴いているのだけれど、考え事や不満に夢中になっていると気付かない。 幸せも、そんなものではないだろうか。