時よ止まれ 1
時が止まってほしい…などと言うと、何やら重たげである。
しかし最近、「時が止まってほしい」と思うことがある。
子供の知性は日に日に進化していく。
興味の対象は変わっていく。
まどかはかつて、犬のおもちゃで飽きもせず遊んでいたものだった。
そのおもちゃには車輪がついており、前後に転がすとオルゴールが『となりのトトロ』のテーマを奏でる。
これをころころと床の上で動かしていたものだが、今はもうそういう遊びはしない。
また以前には、お米やお水を、右のボウルから左のボウルに移し替えるという遊びを、これもまた飽きずにしていたし、階段を何度も上り下りしたものだった。
私たちにとって、階段は目的地に至るための手段でしかないが、子供にとって階段はそれ自体が目的だった。
このような遊びには終わりがなく、その意味で無限の時間に属していた。
より成長した子供の知性は、終わりのある遊びを求めるようになる。
それはゴールであり、達成の喜びが、永遠の中に佇む喜びに取って代わるようになる。
そしてこの成長発展を更に続けていくと――現在の私たちになる。
変化のないことにはすぐに退屈してしまい、「で?」と次を促す。
「時が止まってほしい」と言っても、もちろん、子供の成長を望んでいないという意味ではない。
多分、本当のところは、何より自分自身に対してそう感じているのだ。
自分は犬のおもちゃを前に後ろに転がすだけで楽しめるような心を失っている。
そのことで大切な何かを見落としているからこそ、そのような在り方を今暫く見せてくれそうな子供に対して、時が止まってくれることを望んでいるのだろう。
沈む夕日に対して「あと少し」と願うようなものかもしれない。
「今している遊びを、楽しんでいるか?」
私はこの問いを、ピアノを弾く時に特に自分に投げかけている。
とても難しい。
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