「こわい」
時々、子供を公園に連れていくと、年上の子供たちの配慮に驚かされる。
そういう場面は、主に遊具で見られる。
遊具では、譲り合いが求められる。
先日は、揺れる吊り橋の上でまどかが固まっていた。
大きな男の子が一人、その遊具に登ってきた。
大丈夫かな、と思って見ていたけれど、その少年は、小さな子供にぶつからないように、更にそれだけでなく、無用に足場が揺れないように巧みに渡っていき、しかも「大丈夫でしたよね?」という目で私に振り返って確認した。
「ありがとう」と私は彼に言った。
なおも凍りついているまどかの側に、今度は女の子が二人やって来た。
7歳と10歳とのことだった。
「下を見なければ怖くないよ」
「網があるから滑って落ちても大丈夫だよ」
などとまどかにアドバイスを優しくしてくれる。
昔はこうだったかな、と思い返すと、どうも様子が違った気がする。
年長の子に(同い年の子にも)よく突き飛ばされていたような、遊具はより活発な子に専有されていたような気がするのだが…
どうだっただろう、定かな記憶ではない。
とにかく言えることは、子供たちの中には、より小さな子供を保護しようという本能があるようだ。
私にはそれがとても美しいものだと思われ、胸を打たれる。
いつ、人はそういう気持ちを失ってしまうのだろう。
慈善事業というような大それたことではなく、今目の前にいる人に0円でできる親切を行うということ。
そこには多分、優しさだけでなく、無我ということが関わっているのだろう。
「どうしよう、助けようとして逆に迷惑がられたら」なんてことを、大人は行動するより先に考えてしまうものかもしれない。
子供はそんなことを考えないから、素直に助けの手を差し伸べられるのかもしれない。
優しくあることは本能だが、その表現を止める恐れは後天的なものなのだろう。
私は子供に話しかけられやすいらしく、その日もその女の子二人や、他の男の子と随分お喋りを楽しんだ。
2歳くらい子供は、わざわざリュックの底まで開けて、拾ったどんぐりを見せに来てくれた。
でもそのお母さんは腰が引けていて、知らない人から離れたくて仕方がない。
やはり恐れというものは後天的なものに違いないと改めて感じた。
だからこそ、「怖い」はそう感じるだけで、実際怖い訳ではないんだよ、ということを、子供に伝えたいと思っている。
コメント
「怖い」の中身をよくよく見てみると、生存を脅かされるような本能的なものでない限り、後はほぼ「わからない」が化けているだけだから、化け物の正体を暴いてやろう、もしくはそんなに鼻息荒くせずとも、となりのトトロのメイちゃんのごとく、「あなただあれ?」とこちらから一歩近づいてみれば、近づこうとするだけでも案外早く正体がわかってもしかしたら仲良くもなれるかもしれませんね。
おはようございます。コメントありがとうございます。
キューブラー・ロスによると、生存に直結する先天的な恐怖は「高所」「爆音」の2つしかないそうです。と考えると本当におばけの怖いものだらけなんですよね。これを無力化していくことが、人生の喜びなのかもしれませんね。
そうなのですね。
「おばけなんてないさ おばけなんてうそさ♪」
という歌を思い出しました。「こわい」と思った時に歌うことにします(笑)
キューブラー・ロス、読んでみます。