『流れる星は生きている』
『流れる星は生きている』という本を、読み終わった。
内容の重さ、厳しさ、辛さから、数年越しの挑戦、三度目にして、ようやく、である。
著者は藤原てい。
小説家の新田次郎の妻で、数学者の藤原正彦の母。
敗戦直後の満州からの命懸けの逃避行を綴っている。
戦争の話だから、勿論明るくない。
陰惨、残酷、理不尽である。
同じく戦争を描いた本に『生かされて』があるが(ルワンダ内戦)、この本は絶望の中に見出した希望、救済、信仰、そして赦しが中心的なテーマになっている。
つまり歴史の悲劇を題材に取った教えの書である。
同じくフランクルの『夜と霧』を読めば、人生に対する姿勢を丸ごと改めたくなる。
特攻隊員を見送った老女の伝記である『ホタル帰る』という本は、菩薩の慈悲とはこういうものかということを、一人の人間の行いから示してくれるし、『散るぞ悲しき』という本は、硫黄島で玉砕した一隊、特にその指揮官の姿から、こうして守って頂いたこの国を大切にしたいとの思いを抱かせてくれる。
どれも心からお勧めしたい本である。
こうした本と比べた時、『流れる星は生きている』には一切の救いがない。
ただただ、辛いのである。
起きた外的事実そのものが辛いのは言うまでもない。
しかしそれ以上に辛く思われたのは、人の心が鬼になる、その内的、精神的な真実だった。
母が子を連れて死の恐怖から逃げようとする時、もう歩く力もない我が子を、母はそれこそ賽の河原の鬼のように叱り飛ばし、怒鳴りつけ、蹴りつけまでして、歩かせる。
言葉使いももはや女のそれではなくなる。
それは個人を超えた、本能の発露らしい。
「子供を生かしたい」も「自分が生きたい」も渾然一体となり、ただ剥き出しの生への渇望だけが残る。
時によりそれは入れ替わり、場合によっては「子供になど構っていられない」という思いに心が支配されもする。
「恐ろしい」では到底足りない精神の地獄である。
こういう精神状態を私たちは恐れ、ほとんど嫌悪する。
自分の中にそんな感情があると知らず、そのような人を見たらありえないことだと批判する。
しかし、である。
気になる人は、この本をぜひ読んでほしいと思う。
すでに述べた通り、読んでも少しも前向きな気持ちにならず、教訓もない。
しかし私は、例えばだが、絵を描く時、どれだけ大胆に黒を入れられるかが絵の命をある程度決定すると考えているのだが、心の闇についても同様、私たちがどのような生き物なのかを知るということは、時には必要ではないかと思うのだ。
この平時にあっても勿論、私たちは、辛い、怖い、嫌だ、疲れた、と感じる。
それは等身大の感覚だから、否定するものでは決してない。
しかしこの感覚世界だけに馴染んでいるのであれば、私たちは色彩のコントラストの弱い日常を生きるだけで終わるのではないだろうか。
その薄呆けた感覚こそが、私たちの人生を平坦にしている最大の元凶かもしれない。
この本は恐ろしいので出来れば二度と開きたくないが、だからこそ忘れないためにも目に見える所にいつも置いておきたいと思う。
コメント
ご紹介頂きありがとうございます。
「色彩のコントラストの弱い日常を生きるだけで終わるのではないだろうか」
という一文は、本当にそうだと感じます。ありがとうございます。
コメントでお返事する前に口頭でお話してしまいましたが、はい、是非お読みになってみてください。ビリビリと感じるものがあると思います。