喜びは何処より来たるや

喜びというものは思わず知らず、意外な所からやってくる。
最近、いくらを頂く機会に与った。
これがなんと10年ぶりくらいのこと。
その前は…というと、やはりまた10年ぶりくらいだったような。
それくらい滅多に食べない。
しかし子供の頃は大好きだった。
家でお寿司を取った時に許される最大の贅沢が、いくらだった。
かくして私の潜在意識には、贅沢の象徴とはいくらである、と書き込まれているのかもしれない。
先日いくらを頂いた時、私は幸せのあまり拍手した。
このような喜びは得ようとして得られるものではない。
やってくるのだ。

この冬の始めには、熱燗の道具である「ちろり」を買った。
開封した時、私は「うっほっほ」と喜び余って小躍りした。
文字通りに小躍りしたのである。
一体私の中の何者が、こんなにも喜んでいるのだろうか。
私はそんなに酒好きなのか。
いや、それだけでは済まない、明らかに「自分」ではない、自分の底にいる誰かだった。
思うに、その誰かさんが喜ぶことが、心にとって大事なのだ。
その喜びは得てして一過性のものだが、そんなことは関係ない。
いやむしろ、「その一瞬の内に喜ぶ」ということこそ、心の栄養なのではないか。

大晦日のいくらに続いて、新年早々うにが来た。
うにを頂くのは生まれて初めてのことだった。

10年ぶりのいくらに、初めてのうに…
この幕開けだけでも、今年が私にとって何か特別な一年になりそうことが伺われて、楽しみである。

ちなみにうには、生クリームと醤油と海苔をソースとしてスパゲティで頂いた所、大変な美味だった。
一方いくらは、いくら丼以外の選択肢を持たない。
いくらでも頂けるので。

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