時よ止まれ 2

「時よ止まれ」は、本当は「私よ、時の中で止まれ」と言うべきなのだろう。
私の好きな映画に『スモーク』という作品がある。
小説家ポール・オースターが脚本を務めた、一昔前の温かさが伝わってくる映画である。

煙草屋の主人オーギーは、10年間(だったか)、毎日同じ時間、同じ街角の写真を、同じアングル、同じカメラで取り続けている。
ある日、客の一人ポールがその写真アルバムを見せられる。
めくりながら、「どれも同じだ」と彼は思う。
何と感想を言ったものやら。
しかし煙草屋の主人は、もっとじっくり見るように促す。
情報として処理するのではなく、感じるのだ、と。

すると、どれも同じに見えた写真風景の中に、人々の日々の営みが息づき始める。
晴れの日があり、雨の日があり、上機嫌の日があり、不機嫌の日があり、いた人がいなくなり、新しい顔が現れる…
そしてある写真に突き当たり、ポールは息を呑む。

街角はいつも同じなのではなかった。
いつも違っていたのだ。
一日として同じ日はなかった。
ただ自分ひとりが、どれも同じ日だと思い違えていたのだ。

私たちがなんと多くのものを見落としているか――、昨日もあり、だから明日も当然あるだろうと思って今日という日をおざなりにしているかということを、とても静かに深く、このシーンは伝えてくれて好きである。

繰り返す。
「時よ止まれ」は、本当は「私よ、時の中で止まれ」と言うべきなのだろう。
本当に難しいことだが、毎日そのことに挑んでいる。

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