「なんでもしってるんだよ」

まどかは色々なことを知っていて、色々なことが出来るので、その都度驚かされる。
それで「凄いね、そんなことも知っているんだ」「そんなことも出来るんだ」と言うと、「まあちゃん、なんでもしってるんだよ」「なんでもできるんだよ」と言う。
その発言を頭の中で再生させ、しばらく転がしていたら、神についての理解が一つ深まった気がした。

神は全知全能かそれに近い何者かであると私たちは素朴に考える。
そこに理屈は要らない。
その全知全能ゆえに、私たちは神を、親に類したものと考えがちである。

しかしもしかしたら「なんでもできる」「なんでもしってる」という子供時代の自然な自己評価――これこそが私たちに、「神を知っている」と思わせる記憶、心の故郷の真実なのではないだろうか。
ここに、大人の延長としての神ではなく、子供の姿をした神の姿が浮かび上がる。

成長するにつれて、現実には自分は何でも出来る訳でも知っている訳でもなく、それどころか、つくづく無力であることを理解するようになる。
心の故郷、神から離れ、人間の道を歩むようになる。

古来、子供は神に近い存在とみなされてきた。
「自分は全知全能である」とか「自分には制限がない」という自己認識に留まっていることが、神と子供の共通項なのかもしれない。
してみると、成長し大人になった私たちが、「自分は全知全能だ」とは言わないまでも「自分には制限が(本当は)ないのだ」と知ること、心新たに挑戦したり、遊んでみたりすることこそは、神に還る道と言えるのではないだろうか。

コメント

麻子 さんの投稿…
自分に制限はないのだ、という感覚ですが、最近何度か体験しました。
少しずれているかもしれませんが、「底なしに楽しい」という感覚です。
2度体験しました。

1つは知らなかった作品を学び始め、それを楽器で吹いたとき。
もう一つは山を歩いていて、感じました。
いずれも好きで、趣味でやっていることですし、
普通に考えれば楽しいのは当たり前なのですが、
自分が知らなかった「楽しい、大好きだ」という振れ幅の広さ、
底なしにある楽しさ、を垣間見た気がします。

比べるなら、今までの普段の「楽しい」は
想定内の楽しさであり、
慣れ親しみのある楽しさでした。

日々の生活で、感覚や体験の振れ幅が
そこまで狭い中で生活していないと思いがちでしたが、
たとえば生活や行動の変化に伴い、
何かが突き抜けると、
玉突き的に、自分の知らなかったレベルの楽しさや感情があることを
知るのかなと思います。これは言葉で説明するのが難しいのですが。。

今日もブログをありがとうございました!
カワベマサノリ さんの投稿…
麻子さん
コメントありがとうございます。
それは素晴らしい体験です。
そういう体験を重ねれば重ねるほど、心という世界の広さと深さを感じますね。
アンパンマンの歌ではないですが「何をして喜ぶ」の答えはいつも「これをしたら喜んだ」と過去形で来て、しかも得難い喜びほど一回性であるものです。
だからこそ飽き足りずにさらなる探求、冒険を求め、それが人生を豊かにしてくれることになるのでしょうね。

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