ジャッジメント
Mさんからお便りを頂いたので、お返事をしつつ、また皆で一緒に学んでみましょう。
「河邊さん、こんばんは。
いつも、ありがとうございます。
先日、ブログに私の事が書いてあるのを読んで、「かなりガチガチの頑固者なんだ。」と、がっかりしたのと、変に納得したところです。
今まで自分は誰とでも仲良くできて、柔軟な考えをしている方だと思ってました。
しかし歳とともに最近は好き嫌いがはっきりしてきて(…)決めつけてしまっている自分がいます。
それは結構苦しく感じてます。」
好き嫌いがはっきりするのは良いことだと思うのですが(少なくとも悪いことではない)、それを優劣や正誤の判断(いわゆるジャッジ)の基準にしてしまうのは良くないですね。
例えばあなたが煙草を嫌いだとします。
それは良い。
好みの問題だから。
でも「だから煙草を吸う人は意志が弱いんだ。そして意志が弱い人は良くない。それに喫煙者は迷惑」と考えるなら、それは決めつけであり、こういう攻撃の刃は必ず自分に帰ってきます。
迷惑をかけていない人なんてどこにもいないよ!
たまたま、その人は、あなたのセンサーに引っかかる迷惑をかけているだけ。
あなたはあなたで、あなたのセンサーに引っかからない迷惑を必ず誰かにかけている。
皆、自分には甘い。
多分Mさんは「好き嫌いのないこと」と「ジャッジしないこと」が長らく表裏一体になっていたのだと思います。
だから「好き嫌いが出てきたら」→「ジャッジするようになってしまった」ということでしょう。
かなり難しいことですが、この二つを混同しないように注意しましょう。
どうやったらこの二つを、別々の二つとして分離できるのか考えてみると…
テキトーになることなのかな、と思います。
やっぱり真面目になりすぎるのが良くない(私なんぞが言うのも何ですが…)。
「あいつのこと、本当に嫌いなんだよなあ。まあいいや。大事にしてあげよう。丁寧に接しよう。そうした方が神様の覚えがめでたいし」
くらいに考える良いのではないかと思います。
これを真面目に考えて、
「どうしてあの人はああなんだろう。私だったらこうするのに。だってさ、普通は…。あの時も、あの時も…」などと考え始めると切りが無い。
「あんなに嫌な奴だけれど、神様は生かしているんだから私が四の五の言うことじゃない」
テキトーに、と言いましたが、神はやはり大事です。
神のことを真面目に考えれば、人間界でのことは良い意味で手が抜けます。
力が抜けます。
今日10時から真呼吸会です。
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