ひとのために、私にできること2
一言通信。久しぶりに、金縛りに遭いました。
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今は便利な時代なので、誰にも直に会えなくても、またそのような立場になくても、発言だけなら誰でも出来ます。
SNSの良い利用法です。
Zさんはぎくっとして「まさに私、それが駄目なんです…」
ああ、誰も見てくれない、何も反応してくれない、と落ち込むのはなぜかと言ったら、それは心が「人のため」ではなく「自分のため」に傾いているからです。
自尊心をくすぐらることを私たちは喜ぶものです。
基本的に、自分の、他者に対する貢献というものは追跡不能なものです。
風が、その吹き始めた場所から遠くでようやく何かを巻き上げるように、あなたの発した言葉はあなたの遠くで、誰も見ていない時に届くのです。
それも、必ずではありません。
驚くほど低い打率であることはあらかじめ知っておかなくてはいけません。
たんぽぽの綿毛であれ、魚の卵であれ、放たれてから一体どれだけの数が命を結ぶまでに至ると思いますか?
そんなものです。
誰かの心に届くこともあるでしょうが、届かないこともあるでしょう。
しかしそれでも続けることに意味があるのです。
「自分のため」の考えではこれを続けることは出来ませんが、「ひとのため」を思えば、限りなく少ない可能性に賭けて毎日続けることは、逆に心の良い修練になります。
それでもなお、自分の貢献が見返りを得ないことに寂しくなったりいじけたりする気持ちが湧くことはいつまで経っても必ずあります。
私だってあります。
どんな感情も思考も完全に絶滅できるということはありません。
しかし経験によって、そのような感情が湧いた時に、もう一人の自分にこう言わせる力が増していくのです。
「いったいあなたは誰のためにこれをしているの?
自分が喜ぶため?
人に役立つためでしょう」と。
こうやって、私たちは行いを通して、自分の弱さに気付くことが出来ます。
人のために生きてこそ、想像以上に自分軸で生きている自分に気付くことが出来ます。
気付くことによってこそ、心を浄化していけるのです。
コメント
どこかの国では、贈り物を受け取ってもらった(贈った)側が「ありがとう」という、というのを聞いたことがあります。厚意を受けてくださる方が、「人のため」の心許なさをほんの一時でも打ち消し、報いてくださる事への感謝の気持ちであること、今日の河邉さんの記事を拝読していままでより深く理解したように思います。ありがとうございました。
コメントありがとうございます。
そのお話、私も読んだ覚えがあります! 思い出せないのがもどかしいです。
見所や立場を変えることで、より深い人間の交流が見えてきますね。
人に期待すること(反応などを)は、その人を支配しようとすることだなと同じと感じたことが以前にありました。
自分の自尊心を喜ばせようと「自分のため」にしていたことだったのですね。
「人のため」にする、ということは私の中で「迷惑について」のお話ともつながりました。
これから人の反応を気にしてしまうことがあっても
「人のために」という立ち返る場所があることを覚えておきたいです。
ありがとうございます。
コメントありがとうございます。
そうですね。善意は自己完結的であることが、一つの条件だと思います。
それはとても難しいことなのですが、やはり度々初心に帰るべきことだと思います。