持っていて当たり前のものの価値
持っていて当たり前のものについては、その価値がなかなか分からないものです。
先日、息子にエネルギーとは何かということについて話をしました。
「機関車は石炭によって、電車は電気によって走る。これがエネルギーだ。では車のエネルギー(源)は何?」
「分かった、ガソリン」
「じゃあ飛行機は」
「分からないよ」
「飛行機は機関車みたいに黒い煙を出すかな? 電車のように電線に沿って飛ぶかな? 違うよね。ということは」
「分かった、ガソリンでしょ」(*正しくはケロシンだそうです。)
こうして個別の名称からエネルギーという、より上位の概念を獲得したのでした。
この過程に私は深く感動しました。
その時、丁度カーナビが音声案内をしました。
私のカーナビは英語に設定してあります。
耳聡く、すぐに息子は「いまの、英語」と反応します。
この世にはどうやら日本語っぽくない言語が存在することを彼は知っています。
それで Turn right とか continue for 2 km などと聞こえると、「いまなんて言った?」と尋ねてきます。
「英語なんて分からないよ」と彼は言うのですが、私は全然別のことを考えていました。
日本語が、完璧に分かっているのです。
この感銘を、何と言ったらいいのでしょうか。
4歳と9ヶ月で既に抽象概念を扱えるまでに言語的な発達を遂げている。
知らない単語を聞いた時にすぐにそれを取り入れようとする。
大人の早口の説明にも戸惑うことなくついてくることが出来る。
なんという奇跡のような脳を私たちは与えられているのだろうと思ったのです。
もしこの子が他所の国に生まれていれば当然のようにその土地の言葉を学ぶことでしょう。
当たり前のように何万年も繰り返されている奇跡なのです。
「英語が分からない」という子供の言葉の裏側に「日本語が分かる」という一文が輝いて見えた気がしました。
こんなに凄いことを、私たちは思わず知らずに生きているものです。
本当にどれもこれも、当たり前ではないです。
明日は、獅子座の新月です。
ヒーリングのお申込をお待ちしております。
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