内省3
重要なことは、内的な課題なるものは解決されることを求めている、ということです。
これは魂に根ざしたとても強い欲求なのです。
しかし右手だけでは手を叩けないように、自分一人で自分の内部を見つめても、解決は一向にはかどりません。
そこで左手が必要になります。
その左手こそが、他人であり、現実状況であるわけです。
過激な体験というのは、見事に鳴った柏手のようなものです。
ぴしゃりと良い音がします。
一方、優しく弱く、的をずらして手を叩いても良い音は出ません。
つまり刺激も痛みも苦しみもない体験をどんなに続けても、人間は利口にはならないし、問題も解決されないのです。
私たちの自我は穏便で満ち足りた暮らしを求めていますし、それで満足しますが、魂の方はうずうずして来ます。
「何のために生まれてきたと思っているんだ。魂の課題を解決するためだろう」と、やきもきしてくるのです。
魂と、私たち自我の関係は、人形遣いと人形のような所があります。
身も蓋もない言い方をすれば、そういうことです。
私たちは魂の先端部分であり、表現を担わされた部分であり、その意味では実は全然自由ではないし、自由であるべきですらないのです。
私たちがこの認識に逆らいたくなるのは、ひとえに私たちのエゴが憤慨するからです。
しかしまあ、多分その憤慨を卒業することが、魂の成長のささやかな証と言えるのでしょう。
コメント
特に、
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「何のために生まれてきたと思っているんだ。魂の課題を解決するためだろう」と、やきもきしてくるのです。
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すべてはここに帰結すると感じます。書いてくださってありがとうございます。
掃除も、メールの文面作成も、職場での衝突も、家族とのあれこれも、全ては魂を磨くためのステージであり、避けて通れるものではなく、チャンスであるとつくづく思います。
そうわかっていても、1つずつは苦しかったり、面倒だったり、地味だったりの連続です。お金持ちになるわけでもなく(むしろお金持ちには、なれない)、有名になるわけでもなく、でもそれでよいことに気づくことが大切なのかなと思いました。
ブログ投稿で書いて頂き、どうもありがとうございました。
コメントありがとうございます。
私自身もたびたび悩むことです。だからこその、学びなのでしょう。