1自分の心の底流を映すもの
最近、家の植物たちの調子が良い。
枯れかけていたものたちが息を吹き返して、新しい葉をどんどん湧き出してくる。
それを見るのが楽しい。
植物は家の空気に敏感に反応している。
「家の空気」なるものには、上辺もあれば、底流もある。
上辺ではそれなりに上手く行っていても、底流に淀みや汚れがあると、植物たちに影響してしまう。
その底流は、心の底流でもある。
それは、幼少期の心の傷や、幼少期に定められた人生の方向性や枠組みなのだ。
悲しみや寂しさを見ない振りや押し殺すこと、または自らを鼓舞して楽天的な展望に無理矢理切り替えてしまうことは出来るけれど、植物はその心の底流を無視してくれない。
だからこそ、最近、この家の植物たちが足並みを揃えて元気になったことをとても嬉しく感じている。
自分が内面において変化した、動かぬ証拠なのだ。
植物だけでなく、関わる人々もまた同様に、自分の「心の底流」を映している。
子供を相手にして思うようになることは滅多にないけれど、子供の心の難しさもまた、同じものを映している。
神に対する自分の聞き分けのなさが、子供の自分に対する聞き分けのなさになる(部分的には、少なくとも)。
最近、その辺りに関して、ああ、こういうことなのか、と分かったことがある。
すると、子供の方からすぐに、おや、と目を瞠るような言葉が返ってきた。
改めて、自分の目の曇りを払い、より柔軟な心になることなのだ、と思った。
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最近の内面の変化を映して書き方が変わりますが、お付き合い下さい。
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