7我に幸せを与え給え
数年前、私は「我に艱難辛苦を与え給え」と願を立てた。
というのはかつて戦国武将の山中鹿之介が言ったように、艱難辛苦は自己成長を促す決定的な触媒になるからだ。
神に届く願というものは、すぐに叶う。
ほどなく艱難辛苦が、二波、三波と訪れて、それまでの私のエゴは木っ端微塵に砕かれた。
その当時は辛かったが、洗われた後の今では、あれは絶対に必要な体験だったと思うし、その悟りによって、過去に対する恨みや憤りは消え去っている。
そして私は最近、新しく「我に幸せを与え給え」と願を立てた。
というのは、不幸からも人間は学べるが、幸せからも学ぶことが出来、今の自分は幸せから学べる段階に立っていると思われたからだ。
この新しい「幸せを与え給え」は、苦難からの逃避や現実拒否ではないし、強欲でもない。
艱難辛苦の招来も行き過ぎればマゾヒズムに陥る。
自分の可能性を開拓したいのであって、マゾヒズムを楽しみたい訳ではない。
でも、その自分にとっての幸せとは何だろう、と思う。
そこは来てみるまで分からない。
自分が甘受すべき不幸も、来てみるまでどんなものだか見当もつかなかった。
確かに言えることは、訪れる/またはすでにもたらされている幸せも不幸せも、「私」という精神的統一体の内部に貯蔵されている可能性の顕現だということなのだ。
自分の内側にあらかじめないものが外側に現れることはあり得ない。
それは、ある特定の種からはある特定の花や木が生じるのと同じ理屈。
他のものにはならない。
その外在化の過程を見る、そして可能であれば楽しむのが、人生を豊かに生きるということなのだと思う。
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