83 より良い人間になる
その木の名前は、ピコラと言いました。空に向かって真っ直ぐに伸びる、森の木でした。
ピコラは歌を愛する木でした。心はいつも、歌の調べに満たされていました。それは鳥のさえずり、虫の声、または風に吹かれる葉のざわめきなどでした。森の暮らしは歌にあふれ、ピコラはその中で幸せでした。
それでもピコラはいつも、まだ誰にも歌われたことのないような歌を求めていました。それがどんな歌であるのか、ピコラ自身も知りませんでした。しかしそんな歌に出会えぬ内は、どんなに楽しい時を過ごした日でも、夜になると何かが足りないような気持ちに駆られるのでした。
ある夜、三日月に乗った神さまが森の上にやって来て、ピコラに尋ねました。
「望みがあるというのはおまえかね」
「はい。神さま、私はまだ歌われたことのないような歌を聴きたいのです」
神さまは言いました。「そんな望みを叶えてやったら、おまえはきっと不幸をするよ」
しかしピコラは諦めませんでした。
「どうか、どうか、どうかお願いします」
とうとう神さまも根負けしました。
「そこまで言うなら叶えてやろう」
雷が天から落ち、ピコラは真っ二つに裂けました。
目を覚ますと、ピコラは森の底に倒れていました。はるか頭上からさんさんと降り注ぐ陽の光も、風に揺れる梢のざわめきも、地べたに転がるピコラには今や遠いものになってしまいました。
きのこがひょっこりと顔を出して言いました。「やあ。ぼく、きみの体に住み着くけどいいかな」
「いいよ」
たちまちびっしりときのこが生え、ピコラは見る影もなくなりました。
みしみしみし、めりめりめり…。
それは、きのこや虫たちがごちそうを平らげていく音でした。
朽ちていくピコラの体を食べながらきのこは尋ねました。「きみは何を待っているの?」
「歌を待っているんだ」
「それ、おいしいのかい?」
ピコラは待ちました。大好きだった歌はみんな聴こえなくなりました。いま聴こえるのは、きのこや虫たちが休みなくむしゃむしゃ、がやがやする音だけ。でもきっと、神さまが今にも望みを叶えてくれるにちがいない…
しかしそんな日は、いつまで待っても訪れませんでした。
夜になるとピコラは空を見上げました。神さまは月に乗って森を訪れ、みんなの願いを次から次へと叶えてあげていました。神さまのおかげで声の出るようになった鳥たち、怪我を治してもらった森の若木、子供に恵まれたリスのつがい。ただひとりピコラをのぞいて、みんなが幸せそうでした。
もうずっと、ピコラは悲しい気持ちで土の上に倒れていました。そんなピコラのすぐそばに、ある朝、小さな若葉がふたつ、土から顔を出していました。それはピコラの落とした種から生まれた新しい命でした。ピコラの心はどんなに明るくなったことか。命の育っていくさまをこんなに間近に見るのは、ピコラにとって初めてのことでした。高いところにいた時には、見えなかったものでした。これを見ることが出来ただけでも良かった、と思いながら、ピコラは永い眠りに就きました。
ピコラは朽ち果て、若芽が育ってやがて二代目のピコラになりました。ピコラは森でいちばんの木になりました。神さまは今も月に乗って夜空を旅していましたが、ピコラはもう神さまにはあいさつもしませんでした。
そして雪の降り積もるある日、神様にそっくりな顔をした樵が森に来て、ピコラを斧で切り倒しました。ピコラはばらばらに解体され、長い時間をかけて乾かされ、楽器工房に運ばれました。そしてまたまた神様そっくりな顔の楽器職人の手によって、ピコラはチェロに作り上げられました。このチェロには「未知の音」という名が与えられ、一級品のお墨付きと高値が付けられて、楽器屋に納められました。
早速、町のチェロ弾きが試奏に来ました。
どんな歌が聴けるのだろう、とピコラは期待に胸をふくらませました。
しかし、チェロ弾きが弾き始めるとすぐに、ピコラは身をよじって叫びました。「ちがう、こんな音じゃない!」
チェロ奏者は眉をしかめました「なんですか、この楽器は」
店の者は困り果てました。「ううむ、こんなはずではないのですが」
また別のチェロ弾きがやってきました。しかしどれもこれも、ピコラは気に入りませんでした。弾かれれば弾かれるほど、心は固くなり、音もどんどん悪くなりました。
「要するに、あれですな。粗悪品を掴まされたということだ。お気の毒に」
最後のチェロ弾きは、店の人にそう言い渡すと、立ち去りました。
いやはやこんなものを置いておくのは店の恥だと言って、楽器屋の主人はピコラをバザーに売り飛ばしました。
そしてある寒い冬の日のこと、ピコラはとうとう乞食の薄汚れた手に渡りました。飲んだくれの、その乞食の名はボーノ。別にチェロがほしかったのではありません。焚き火をするのに少々の燃やせる木がほしかったのです。街角で拾い集めてきたいくつかの酒瓶と交換して、ボーノは、埃とおが屑と汚れにまみれたそのチェロを手に入れました。弓も一緒に。
やれやれ、これで焚き火が作れる。ボーノはとても幸せな気持ちで、にこにこしました。
「どれ、これは何ていう楽器なんだろうね」
ボーノは指で、弦をひと鳴らししてみました。
ぼろろん――。
すると不思議なことに、その音ひとつで、体の中が芯から温まるような心地がしました。
「おや、これは」
ボーノは心を奪われて、何度もその音を奏でました。ぼろぼん、ぼろぼん、と。それから今度は弓で弦をこすってみると、深い溜め息のような音が、楽器の中から響いてきました。たくさんの思いを溜め込んで、話を聴いてくれる人を待っている、まるで自分のような…
こいつは、友だちだ、と、その声を聴いて、ボーノは思いました。
ボーノはそれから毎日、街角でチェロを弾くようになりました。
「よう、ボーノ。また友だちとおしゃべりかい?」
仲の良い乞食仲間が笑いながら通り過ぎていきます。
そうです。ボーノはお互いの物語を話し込むかのように、親しげにピコラを弾くのでした。ある時は弓で、ある時は指で弾いて。するとまるでピコラがボーノに返事をしているように聴こえます。またボーノはピコラの物語も聞きました。きっと、ああだったんだろう、こうだったんだろう、と勝手な想像を膨らませては、その時こんな気持ちだったんじゃないかい、どうなんだい、と言いながら、チェロを弾きます。
ピコラはそんなボーノの心に合わせて歌いました。
それはまさしくピコラにとって、まだ歌われたことのないような歌と思える歌なのでした。こうしてついに、長らく求めていたものにピコラは出会ったのです。
一方、乞食のボーノはそうこうする内に味わいチェロ弾きとして町の人々から喜ばれ、それからと言うもの、凍えることのない冬を過ごせるようになったということです。
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