166 雨の火の話の続き2
子供に近付いていくべきか、立ち去るべきか、そのことで10秒ほど迷いました。
あとでこのことを肉親の一人に話しましたら「どうしてそんな余計なお世話をするの。その家ではそういうしつけなのかもしれないでしょう」と言われました。
そう言われて、私は面白くなく、こう言いました。
「そうかもしれないけれど、同じくらいの可能性で虐待だったかもしれないでしょう」
その後、よくこのことについて考えてみました。
「それをすることで、迷惑になるかもしれない」と私の肉親は考え、一方、私は
「それをすることで、助けになるかもしれない」と考えました。
これは楽観と悲観よりも奥深い、肯定的予測と否定的予測の違いなのだということに気付きました。
結局、どっちかなんてことは、その時その場では分からないのです。
よくよく調べたって、真偽がつかないことはこの世にいくらもあります。
だからこそ、肯定的予測で動かなくてはならないのではないしょうか。
そして楽観的予測は実は意外と簡単で、問題を見て見ぬふりしたり、自己中心的になってしまえば得られる態度でもあります。
一方、肯定的予測は、否定的可能性と天秤にかけた上で、一歩を踏み出す心の力を必要とします。
実際、私がしたことがその親子にとって良いことだったのか悪いことだったのかは、私には分からないことです。
でも多分その時私は、肯定的予測に基づいて生きる人生と、否定的予測に基づいて生きる人生の分岐点に経っていたのだと感じました。
今日もお読み下さいましてありがとうございました。
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