167 雨の火の話の続き3
座右の銘なんてものは私はこれまでずっとなかったのですが、最近、それは「厭離穢土」であると悟りました。
厭離穢土(おんりえど)とは…汚れた俗世を厭うて離れる、という思想です。
と言っても、私にとっては、都会を離れて鄙びた田舎に移住するとか仏門に入るとか、そういう意味合いではありません。
世の人々が知らず知らずの内に作り上げた社会通念は、おかしなものです。
足りるだけあれば有り難いのに「もっと」と望んでみたり、自分だって自由にさせてほしいのに他人を支配しようとしたり、形あるものでばかり価値を図ろうとしたり。
そんな考えに基づいて、生活も政治も経済もすべてが織りなされています。
私もまた知らぬ間にそのような誤った通念に絡め取られて自分の人生を不満に思ったり、他の人生を望んだりしてきましたが、その誤りに気付かせるためにこそ、人生は決して私の誤った願いを叶えるわけにはいかなかったのです。
「この人生を受け入れなさい。それは素晴らしいものなのだから」と。
自分の中に入り込んだ誤った考えを脱色したことによって(概ね達成したと信じます)、自分がいたのは「穢土」だった、そこから永久に「厭離」し、そこを自分の住む場所と定めたいと思うようになったのです。
雨の日に子供が泣いていた時、「関わらない方がいい」「迷惑がられるかもしれない」「あっち行け、と言われるかもしれない」という恐れはとても人間じみた、人間臭い考えであり、私はその時、この話を美化したいわけではないですが、人間を離れて精霊になっていたと思います。
精霊または天使または菩薩は、このような時、人の前に降り立って助けを差し伸べるものと思います。
でも精霊であれ天使であれ菩薩であれ、そのような存在は、私の考えではいずれも独立的に存在できません。
あくまでも人の身を通してのみ、降りてくるものなのです。
つまり、自分がその化身とならなければならないのです。
**「魂活」に戻りました**
今日もお読み下さいましてありがとうございました。
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