168 雨の火の話の続き4
人間臭さから離れ、精霊のようになることは、痛みと引き換えなのだと思います。
その親子から離れ、しばらく歩くと、私は泣き始めました、とお話しました。
自分のことでも、あんな大きくて捉えようのない悲しみを心に感じたことはなかったような気がします。
いや、あるのかもしれませんがそれはあくまでも「自分の悲しみ」でした。
でもその日の悲しみは、「他人の悲しみ」でした。
それが心の中に入ってきて、抜けなくなってしまいました。
数日後にAさんと晩酌している時に私はこの話をし、でも傷つきたくなかったので「最大限の共感を準備して聞いて下さい」と前置きしたのですが、喋れないほど泣きました。
しかしどうにか喋り終わると、それと一緒に、心の中に突き刺さったままになっていた何かが抜けた気がして、凄いものが入っていた…と改めて思いました。
御伽噺めいた話し方をすれば、だからこそ天使や地上から離れた天の高みにいるのでしょう。
この殺伐とした地上では壊れてしまうので。
人の心に天使が入る時、人は優しくなれると同時に、大きな傷を追うのだと思います。
でも、それでもやはり、それこそが人間のなすべきことなのではないでしょうか。
自分が傷ついたり、恥をかいたりすることを恐れるあまり、助けられるかもしれない子供を無視して通り過ぎる…そうした無関心の積み重ねによって世界は殺伐としていき、その結果を見て人は「すっかり殺伐とした世の中になっちゃって」と言い、自分がその流れに加担していることに気付かないものです。
世界が大きく改善されることを望む前に、やるべきことでも出来ることも、本当に沢山あると思います。
今日もお読み下さいましてありがとうございました。
コメント
最近、電車、スーパー、路上など一日一件はキレてしまった人や目を背けたくなる風景を見ます。
息子は先日の吹雪く雪の朝、雪に喜ぶ小さな女の子と見守るお母さんの幸せな姿を見、その直後、自転車に乗る男子高校生と自動車の衝突事故を見たそうです。両者共に慣れない雪道を急いでいたようです。息子の主観では自動車側に非があったようですが、車の運転手は衝突後、高校生に罵声を浴びせたそうです。幸い大怪我はなかったようですが、高校生は逃げるように自転車と共にその場を立ち去ったとのことでした。
300mも離れていない場所で、片や幸せな親子の姿に反し、殺伐度が悲惨すぎる風景に、同じ雪の日に複雑な気持ちになったようでした。
天使の心は確かに傷を負うと思います。しかしそれをいちいちしていては身が滅びてしまう世界に私達はいて、いつしか見て見ぬふり、映像を見るように通り過ごし、何もできなかった自分の心に刺さったトゲを親しい誰かに話すことでなだめているのかもしれません。
良き行いに救いがないわけがありません。繊細な私(自分でいうのもなんですが)は人がいる場所へいくとぐったりしてしまいますが、できる範囲で良き行いをしたいと思いました。
河邉さんの行動はお父さんと小さな男の子に無意識の部分で何かを残したと私は思います。
そのお話を伺うと、安直な言葉を使うのは好きではありませんが、まさに二極化の感がありました。私が多くを見ずに済むのは、ひとえに家に居がちだからで、出歩けばまさしくそのような風景は毎日のように、なのでしょうね。だからこそ、自分の居場所、自分の棲む階層を自分で決める必要がいっそうあるように感じられます。