手紙(2025/12/08)
先にお知らせです。
絵画展ですが、12月12日から「年内」に会期を変更しました。
絵を並べてみた所、日常の生活と仕事に差し支えないと思われたため。
是非足をお運び頂けましたら幸いです。
絵を眺めつつ、珈琲でも飲みながらのんびりお話しましょう。会場:東京都狛江市中和泉2−7−5
ご来訪の際は事前にご連絡をお願いします。
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ブログの名称が「手紙」になりました。
自分とは何か?
自分に出来ることは何か?
と考える時、仕事が真っ先に頭に浮かびます。
しかし、それはどこまでも自分の一部。
たとえ大きな部分を占めるとしても、やはり一部に過ぎないものです。
もっと奥深い所からこんこんと湧いてくる無垢の思いを言葉にして、ヒーラーという肩書からも離れて、一人の人間として皆様にお届けしたいとの気持ちから「手紙」と改めました。
またThreadsの使い勝手の良さも経験した上で、こうしてより静かな場から皆様に語りかけることの大切さも改めて学びました。
そういうわけです。
これからもよろしくお願いします。
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先日、息子の、保育園最後の発表会がありました。
一昨年は舞台端に身を置いて、参加しようとしなかったまどか。
去年は参加はしたけれど、皆と一緒に歌うことは拒んだまどか。
その彼が、今年はしっかりと役をこなして、大きな声で皆と一緒に歌っていました。
終わるや否や「ああ、ほんとにいやだった」と言う辺りは、幼い頃の私にそっくりでしたが。
ともあれこうしてガタガタと音を立てながらもトロッコはちゃんと前に進んでいきます。
繰り返す話になりますが、生後三ヶ月で発症した重度の乳児湿疹から別居が始まり、二歳の頃に離婚に至り、四歳になる前には三ヶ月ほど会わない時期もありました。
こうしたことを「事故」とは思いません。
それは魂の約束、魂の計画として生じた出来事でした。
ただし、その全貌がその時ごとに明示されることはなかったのでした。
天使の声がはっきりと聞こえるならば、あの時、天使はこう語ったことでしょう。
「あなたたちはこれから離婚します。そうすることが、あなたにとって、彼女にとって、子供にとって有益なことだからです。しかしあなたは何も失いません。何も奪われもしません。子供とは毎週会えます。別れた奥さんとは本当の意味で互いに尊重し合える関係になれます。
一人で暮らすようになることで、その環境でしか学べないことをあなたは学んでいくことになります。それはあなた自身のため、子供のため、関わる全ての人のためにとても有益なこと、あなたの人生に欠かせない大切な学びです。何を悲しむことはありません。怒ることも、悔いることもありません
(追伸。おまけに、絵や音楽の素晴らしい創作活動も、一人暮らしであるゆえに出来ます)」と。
しかしその当時、私にその声は聞こえず、嘆き、憤り、しがみつきました。
数年かけて、次第にその「声」の言わんとする所が心の中で形を纏い始め、自分自身も含めて全てを――他者も、現状も、過去も――許し、受け入れること、そこから更に進んで、喜び、感謝し、大切にすることが、出来るようになりました。
息子と私の関係は初めから一筋縄ではいかないものでした。
そこには家系の上を流れるカルマの働きがありました。
魂の計画は全て光り輝くものですが、その過程において闇が経由されることは平常のことです。
息子は私の傍では居心地悪そうにすることがしばしばでした。
私もそんな息子に対して、どう接したら良いのか分からず苦しむことが多々ありました。
私は息子の人生から締め出されたとは言え(当時の私の主観です)、それでも、縁がほどけて失われるようなことは、あり得ませんでした。
四歳になる前、三ヶ月の不沙汰を経て再会した日、まどかは、料理中の私の脚に腕を回して「おとうちゃん、だいすきだよ」と言いました。
そう言われたのは初めてのことで、胸がいっぱいになりました。
私を忘れることで、より混乱の少ない人生を生きてほしいと考えていましたが、そうはならないのだということを教えられました。
それから毎週のようにこの家で土日を過ごすようになると、次第に困った癖が見えてきました。
それは、ご飯を拒み、お菓子を過剰に求める癖でした。
彼の中の何らかの不安定性が、性癖となって表現されていました。
親として当然するべき指導を私はしました。
すると、それほど強く言う訳でもないのに、そのつど息子は涙を浮かべ、瞬きを何度もし、心を閉ざしてしまいます。
また、あまり活動的ではなく、一日中アニメを観てばかり。
これも、やめさせようとすると、難しい反応が出てしまいます。
困りました。
この時期の体験は、大切なことを私に教えてくれました。
私は自分の視点、親としての責任意識に縛られていました。
立場を置き換えてみると、土日にだけ会える「だいすきな(はずの)おとうちゃん」に、会うたびに、あれはだめだ、これをしなさいと言わたら、それは嫌だろうということが分かりました。
自分が子供に対して望むことや取る態度が、普段一緒に暮らしていれば出来ること、またすべきことであったとしても、こうした特殊な関係性である以上、それを前提にもう一度ものごとを考え直さないといけないと思いました。
いま彼が一番ほしいのは、おとうちゃんとの楽しい時間、それだけなのだ、と。
それを叶えてあげるのがまず先。
他のことは、その後。
「普通は」や「自分なら」を一旦忘れて、彼の心をもっと大切にしなくては、と理解しました。
それで、食事についても、アニメについても、何も言わないように努めました。
教育の必要性を放棄したのではなく、時間的視野を広げました。
躾は後からでも間に合うかもしれませんが、親に愛されたという実感は、この機を逃すと取り返しが付かないものだからです。
また、躾は他の人や環境が与えてくれるかもしれませんが、父親に愛されているという実感を与えることが出来るのは、父親しかいません。
霊たちは、葛藤を通して私を導いてくれました。
やがて、私と息子の間にあった根深い障壁が消えていくのが感じられました。
上述の「おとうちゃんだいすきだよ」を、その後の難しい期間、聞くことはありませんでしたが、一年半ほどの月日を経て、まどかは「おとうちゃんだいすき」を再び言うようになりました。
心からそう思っていて、そう言葉にするのに何のためらいも不安もないのが感じられます。
「きょうはおとうちゃんといっしょにいられて、ほんとにしあわせだ」と嬉しそうに言います。
併行して、よく食事をするようになり、お菓子に対する過度の求めもなくなりました。
最近では野菜も残さず食べられるようになりました。
以前よりずっと聞き分けがよくなったのは、それだけの年齢になったから、ということを超えて、その根底となる信頼と絆が、お互いの間で深まったからだと思います。
よく思うのですが、もし私が、自分がかつて安直に望んだような幸せな家庭を築けていたら、学べなかったはずのことが沢山あります。
それは、意識を前向きに保つこと、より良い未来を信じること、自分と訣別した相手を赦すこと、赦すだけでなく尊重すること。自分自身の人生を、嘆き悲しみによって黒く染めないこと。そして何より大切なことに、「愛する」という魂の務めを果たすこと。
これらはすべて、喪失の体験なしには学び得ないものでしたし、私がこの人生で学ぶべきことでした。
自分の信じ込んでいる「普通」や「常識」は、小さな窓から覗いている、大きな宇宙の切れ端です。
自分にとって思いもかけない形で、他のもっと良いことが常に進行しており、それを信じる者には必ずその実りが示される――私は今では疑いもなく、そのことを信じるようになりました。
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