手紙(2025/12/15)
私の毎日は本当に変わりました。
日々、神に祈りを捧げて生きています。
こうなるとは思いませんでしたが、こうなるしかなかったと思えます。
ここに至るまでは長い道のりで紆余曲折がありましたが、辿り着いたこの場所は自分にとってとても正しいものだと思えます。
神に祈りを捧げる、ということの意味する所を、長らく私は理解していませんでした。
祈りにも色々あります。
私にとって祈りの本質は、神と共にあること、神に心を溶け込ませることです。
それをすると何か良いことがあるのか?と問われるかもしれません。
そうすること自体が、良いことなのだ、と私は答えます。
それは、以前の自分には、全然、良くも面白くも意義のあることとも思われないことでした。
最近、再び熱心にチェロを弾くようになりました。
バッハの『無伴奏チェロ曲』は1番から6番まであります。
6番はアマチュアには手の届かない高難易度の作品で、私は、「アマチュアの自分はこんなものは出来なくていいのだ」という便利な言い訳で避け続けてきました。
しかし1ヶ月ほど前に、自分にはこれが出来る、というか、それまでよりも霊の力と同調できるようになった今の自分には、この作品を奏でるだけの霊力と繋がることが出来る、という思いが湧き、挑戦を始めました。
現在、順調です。
チェロはピアノやギターのように、音程の明確な境界線を持ちません。
ドの隣はド#ではなく、ちょっと高いド、それよりちょっと高いド、更にもうちょっと高いドが無限小で続いて、やっとド#に至りますが、それも一瞬のこと。そこからまた、ちょっと高いド#の領域が無限小で続きます。
1mmずれれば音程にそれだけの狂いが生じる難しい楽器です。
その1mm以下の感度を、全ての指に、全ての指板上の地点において正しく働かせることが出来るよう訓練しなければいけません。
これは途方もないことだと思われます。
しかし鳥は遠くから餌めがけて飛んできます。
一瞬の内に飛んできて、狂いなく、その小さな嘴の先に対象を捉えます。
彼らは一体何をしているのでしょうか?
古代ギリシャ語の「プネウマ」つまり命の息吹の働きにすっかり身を任せ、一体になっているのです。
この同じ能力を人間が持たないはずがありません。
達人の技というのは要するにそういうことだと思います。
自らのコントロールの先に、自らを明け渡すということがあり、その精神の精妙な操作を獲得することは魂の喜びです。
こうして6番組曲が、取り掛かるべき大切なお題として、私の人生に17年ぶりに戻ってきました。
昨夜、ボンっと音がしたと思うと、全ての弦が緩みました。
物理的には温度変化によって生じたのでしょうが、ここには意図があるに違いないと思いました。
そこで、この意味する所を教えて下さい、と祈った上で、調弦を元に戻しました。
ところで通常、チェロの第一弦は440ヘルツのラになります。
弦の張りを強くすると、音は高くなり、硬くなり、ぱりっとします。
反対に、張りを弱くすると、音は低くなり、柔らかくなり、ぼんやりとした感じになります。
普通は問答無用で440ヘルツに調弦されます。
なぜならそうしないとその他の楽器なかんずくピアノと合わせることが不可能になるからです。
実は私はある時期まで415ヘルツにしていました。
その意味する所は、丁度半音下のラ♭ということです。
私はこの張りの弱さ、音色、そして弦の触感が好きなのです。
でも、近年は自作のレコーディングの便宜もありずっと440ヘルツにしていました。
さて、翌日、チェロを手に取ると、昨日440ヘルツに調弦したはずの第一弦はほぼぴたりと415ヘルツになっていました。
申し合わせたように、第二弦、第三弦も足並み揃えて、綺麗に半音ぶん下がっていました。
第四弦もほぼ。
これは、偶然と言うにはちょっと思わせぶりです。
これが昨日の問いの答えなのだ、と思いました。
私にとってチェロの調弦が半音下がるということは、単に楽器のコンディションの話ではないのです。
他の楽器と合わせるなら440ヘルツ、それ以外の時には何ヘルツで弾こうと私の自由。
それだけのことと言えば、それだけのことです。
それなのに、私はもう何年も440ヘルツから動こうとしませんでした。
私はきっと、「普通」と違うことを一人だけ勝手にやっていることに、いつまでもこの世界に馴染めないことに、罪悪感とは言わないまでも、決まりの悪さや劣等感をずっと感じていたのだと思います。
チェロに限った話ではありません。
この生き方の全てについて、です。
自分そのものを肯定していませんでした。
…あなたは「皆と違うから」という理由で、「自分だけの音の調子」を追いやってきたのではないか?
この柔らかく、曇った、温かみのある音こそ、あなたは本当はほしかったのではないか?
この音色は、まさにあなたの声に似ていると思わないか?…
その通りだ、と思いました。
今では神に祈ることを生活の中心にしている、というお話を最初にしました。
以前には、その意義も価値も必要も、自分には分かりませんでした。
それよりも、目に見えて人の役に立つ働きをするとか、一人前に生計を立てるとか、子供に対して両親一揃いいる家庭を願望するとか、「外なる価値」を自分に当てはめようとしていました。
でも生きれば生きるほど、自分は他のどれでもなく「これ」をしたいのだ、この、祈るという行為をしたくて生まれてきたのだ、それが自分にとっての「内なる価値」に見合うことなのだ、ということが自分自身に明らかになってきました。
私にとってチェロの「内なる価値」は、様々な、あるいはどんな難しい曲でも、他人と分かち合って巧みに弾けるようになることではなく、プネウマと一体になることなのです。
それに適した音が、私にとっては415ヘルツであることは間違いのないことです。
…もういいでしょう、外を見て、人と比べて、自分をはぐれもののように思うのは。自分の好きな世界に浸りきりなさい。浸りきることを自分自身に許しなさい…
私は、そう言われたのです。
今このチェロの音色が、弦の震えも、とても好きです。
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