四通目の手紙(2025/12/19)チェロ、人生の受容と謳歌、恩寵

先にお知らせです。

年内最後に瞑想会を開こうかと思っています。
オンラインです。
12/27、28、29の3日間のいずれかで。
ご参加希望される方はご連絡下さい。
参加費はお布施でお願いします。

明日20日(土)は射手座新月で、22日(月)はいよいよ冬至となります。
ヒーリング、コーチングその他諸々、心身を洗い清めて下さいませ。

・・・・・・・・

10年ほど前に、短い間でしたがヴァイオリンを弾いていました。
チェロには届かない音域に憧れる気持ちが強くなったからです。
チェロという下地があるので、ある程度弾けるようになるまでは早かったです。
しかしやがて飽きてしまってやめてしまい、かと言ってチェロに戻るでもなく、どちらも長らくケースの中にしまったままになっていました。
無い物ねだり、と言えばそれまでの話ですが、そこにはやはり秘められた願いがあったのだと思います。

そもそも、バッハの『無伴奏チェロ組曲』に惹かれて、チェロを始めたのでした。
19歳の時のことです。
でも弾いている内に、この音じゃない、という気がしてきました。
何だか、重くて、鈍くて、がさごそして…
自分みたいな音でした。
それでヴァイオリンに心が向かいました。
でもヴァイオリンもしっくり来ませんでした。

いま簡潔に振り返ると、私の心が欲していたのは「ヴァイオリンのようなチェロの音」だったのだと思います。
マトリョーシカのように、見た目はチェロなのだけれどその外形を取り払ってみると、精神の内側からヴァイオリンの響きがする、というような。
それは単に、音域の問題ではありませんでした。
喩えて言うならば、チェロは肥えた土、ヴァイオリンはガラス細工。
チェロが人生の受容であるならば、ヴァイオリンは人生の謳歌。
そのようなことです。
私は、変わりたかったのです。
それまでとは違う自分になりたかったのだと思います。

人生の受容も謳歌も、いずれかだけが正解な訳ではなく、そしてまた万人に共通する適正な配分などがあるわけでもなく、人それぞれ、そして人生のその時々において、この二つの極のいずれかに重心を傾けたり、あるいは両者を上手に混合させたり、または上手く行かずに混乱に苦しむ、ということがあるものです。

多分その頃、私は、チェロの響きのように、一歩退いた所から全体を観察し、必要とされる声のみを語る、ということから脱して、ヴァイオリンの軽やかさと、必要以上の音も奏でる自由を楽しみたかったのだと思います。
でも、内面に関わる全てのことは、葛藤にこそ真価があります。
安直に「チェロじゃなくてヴァイオリン」ではなく、「チェロでありながらヴァイオリン」という解けそうもない矛盾の解消を、私はその後の年月の中で進めていく必要があったのです。

そうは言っても、私はそのために日々練習するということをしないので、時期が来るまでずっと待っていました。
もしかしたらこのままチェロを弾かずに一生を終えるのだろうか、そういうことも充分あり得そうだし、実際それほど未練もない、とさえ思っていました。
しかし神への理解と愛が決定的に深まった1ヶ月ほど前に、チェロへの扉が再び開かれました。
それから毎日チェロを弾いています。
昨日、チェロからヴァイオリンの音がしました。
ずっと欲しかった音が、聴こえてきました。

実はそのような音色を自分のチェロから聞いたのは初めてのことではありません。
以前もごく稀に、ありました。
しかしそれはきっと、神からの、未来の可能性のほのめかしだったのでしょう。
「こういう音が出せるんだよ」と。
そんな時、驚くほど、腕も弓も軽くなります。
自分の平常の技量を超えて音程も良く、弾いていてとても気持ち良くなります。
それをいつでも何度でも再現できるようになりたくて、しかし再現できずに十年以上足踏みしていました。
明らかに、こうしたことは外部から霊的な力が入ってくることによって可能となるものです。
自力の精神で頑張っても、その代理物さえ手に入らないような恩寵の一種です。

今、それが自分の精神を正しく方向づけることで、繰り返し再現できるようになりました。
そのための心がけを、言葉にし尽くせるものではないことを承知の上で挙げれば、それは

心から感謝すること、
心から大切にすること、
語るよりもよく聴くこと、
動くよりもよく待つこと、

ではないかと思います。
このような心持ちで、そしてそのこだまとしての響きを楽しんでいると、改めて驚きに包まれるほど幸せな気持ちになります。

コメント

このブログの人気の投稿

【号外】春分の無料遠隔ヒーリング会

44 『最後の教え 人生を切り開く癖直しの秘訣』

250 【要約】意識の目覚め