7通目の手紙(2026/01/13) 喜ぶ努力、愛する努力、愛されることを知る努力

チェロを日々弾く中で、沢山の学びがあります。
その中でも一番大切だと思われるのは、喜ぶこと、です。
それがどんなに難しいことであろうとも、やはりそれは喜ぶに値することなのです。
喜ぶと、難しいことが簡単になります。

これは生きることにもそのまま当て嵌まると思います。
聖書には「いつも喜んでいなさい。どんなことにも感謝しなさい」という一節があります。
「冗談じゃない、こんな状況をどうして喜べる。感謝なんて出来るものか」と思える時もあります。
でも何事もそうあるように、しばしば因果関係を私たちは逆転させています。
いつも喜ぼうとしないから、喜べない状況が来るのです。
いつも感謝しようとしないから、感謝の対極にあるような災厄が来るのです。
喜ぶことも感謝することも、その発生は
「誰かや何かに喜ばせてもらう」
「感謝に値することをしてもらう」
ではなく、自ら着火することです。
喜ぶことも感謝することも、受動的な体験ではなく、多大な精神力を要する能動的な努力の成果です。
幸運の産物などではなく、精神的な技術の結晶なのです。
音楽的、技術的なことの全てが枝葉末節に思えるくらい、私は喜びに集中してチェロを弾くようにしています。
日々、その喜びが色を増していくのを実感しています。

子供との関係に似ています。
幼い子供の相手をすることは、時として非常に苦痛です。
日が沈んでもまだプラモデルを作り(とにかく細かく小さく、難しいので手伝わないといけません)、朝起きてまたすぐにその続きをしていて、そこにあれやこれやと些事が休みなく積み重なっていくと、神経がやられそうになります。(一体作るのに5時間くらいかかりました)
でも息子は心から喜んで、その喜びから決して離れようとしません。


「疲れたね」
「休む?」
「ううん、絶対休まない」
(*絶対にお父ちゃんが休ませてもらえないことを同時に意味します…)

喜びたいだけ喜ばせてあげることは、親としての自分が子供に対して出来る最善のことだと考えています。

「おとうちゃんはどうして時々、にこにこしながらまーちゃんのこと見てるの?」
「それはおとうちゃんがおまえのことが大好きで、おまえを見ていると幸せな気持ちになるからだよ」

どういう目で、どういうふうに見られているかということを、子供はよく知っています。
だから、自分の心を喜びという鳥籠の中にいつも注意して納めておくことはとても大切だと思うのです。
目を離すと心は飛び去ってしまい、今この時に際して考えなくても良いことを考えたり、無用に苛々したり、忙しなくなったりしてしまいます。
そうならないようにすることは、やはりまた、努力によって可能となるものです。
子供が聞き分けが良いから自分もまた寛容になれるのではなく、自分が愛に基づいて寛容になることによって、子供の聞き分けが良くなるのだと思います。
息子は本当に近頃変わり、先日の滞在中は一つもお菓子を求めず、ご飯を沢山食べました。
一年前にはほとんどご飯を食べようとせず、お菓子ばかり求めていた彼が、です。
これは単に年齢的な変化によるものではなく、愛が届いたことによる成長の証だと考えています。
そう確信できるほど、愛する努力を沢山しましたので。

愛とは相手の成長を積極的に願う心である、とあらゆる賢人が言っています。
単に好きだとか生き甲斐を与えてくれるとか、そういうことではないのです。
以前の私の想念は、子供のこと、子供とのことに関して、心配や不平や寂しさばかりでした。
そうした感情の真っ当な理由を、現状や過去に探し出そうとばかりしていました。
今は何を心配することもなく(外的条件には特に何も変化はないままに)、良い考えだけを抱いています。
この子は絶対に大丈夫。そしてこの子は素晴らしい、とだけ思っています。
神もまた人間に対してそのように愛しているのだということが私には自然と推察されるようになりました。
私たちが神に愛されている確信を持てないのは、幼少期の体験、つまり神の似姿としての親が、神のイメージを屈曲させてしまったことに由来しています。
それは魂が負った疵でした。
でもそれは真実ではないのです。
真実を知るためにも、やはりまた努力が必要です。
「だったら神が私を愛しているという証明をくれ」とあまりにも辛い時には思えるかもしれません。
でも必要なことは、愛されているという確信を多大な努力によって自分の中に打ち立てることなのだと思います。
逆境の中にあってさえ。
そしてやがては順風な人生の中で。

最後に、先日息子との間で交わされた会話です。

「ねえお父ちゃん、人間のカダラって誰のものなの?」(*カラダのことです)

とても深い質問をするものだと私は感心しました。

「二通りの考え方がある。一つは、その人のものだ」

「あとひとつは?」

「何だと思う?」

「神様?」

「当たり。どうして半分は神様のものなんだと思う?」

「神様が貸してくれているから?」

またまた感心しました。

「そうだね。この体は自分のものだと思うと、体を好き勝手にして壊してしまうこともある。でも神様に貸してもらっているものなんだから大切にしなくてはいけないね」


人生もまたそのように大切にされるべきものだと思います。

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