手紙(2025/11/27)

更新が稀になりましたが、そんな中にもブログを訪問して下さいまして、ありがとうございます。
今日は久しぶりに長文ですが書いてみます。
Threadsは細切れの投稿になりがちですので。

最近、色々な変化を感じています。
まず、体調がとても良くなりました。
覚えていらっしゃるかと思いますが、一昨年から去年にかけては20ヶ月に及ぶほぼ毎日の下痢と、その半分くらいの月日の不眠症に悩まされていました。
勿論、これらは医学的な観点における病気ではなく、霊的な症状だったのです。

「霊的な症状が出るということは、魂に背いている証拠」
というようなことは私もよく言いますし、皆様もたびたび目にされることと思います。
ここで持たれがちな誤解は、「どこかの時点でそういった段階を卒業する。そういう症状が出ている内は未熟で不出来」という考えです。
これは全くの誤りです。
進めば進むほど、そして進んでいようといまいと、「まだ成らず」の部分は残されます。
そしてそれが人生の様々な時とその霊的要請に応じて、認知可能な問題として浮上してくる、ということがあるだけなのです。

ともあれ、症状を抱えているのは苦しいものです。
それから解放されたのは、楽、の一言です。
何かきっかけがあったのかと言えば、よく分かりません。
しかしその時期を挟んで今と過去を並べて比べてみると、その頃の自分より今の自分の方が、明るく清く軽くなっています。
変化はある日を境に起きるのではなく(と言っても私の場合、例の覚醒体験があるのでそれは例外なのですが…)、鍾乳石のように日々積み重ねの中で身を結び、姿を表していくのだと思います。

色々なことを受け入れ、また諦め、より曇りのない目で人生を見ていく必要があります。
固定観念と感情はいつもその邪魔をします。
取り除くことは容易ではなく、毎日静けさの中に立ち返り、「本当の自分」を、砂の海の中に探し、掘り出し、いっときでも鑑賞する必要があります。
そのために瞑想が必要なのは言うまでもありませんが、他にも、空を見ること、歩くこと、絵を描くこと、お酒を味わうこと、人と心を通わすこと、本当の思いを言葉にすること…色々あります。
今年は予期せず喫煙習慣が長引いてしまっていますが、空の下に立ち、空を見上げながら一服していると「大丈夫だ。何も心配はいらない」という声がいつも聴こえます。
ですからこれは私にとって神聖な時間となっており、そのせいで煙草をやめないのかもしれません。

ここで一つ皆様にもお裾分けしたい知識は、「そのような時間にはそのことだけに浸り切る」ということです。
他のことは何も考えません。
自分は空の下に立つためだけに今ここにいる、と思い、それ以外のことをしたらこの時間は何のためにあるのだ、と考えて、心を無用に動かさずにいると、聞こえるはずの声が聞こえるのです。
それは、聞かれるのを待っている言葉。
必ずしも確かな言葉ではないかもしれません。
むしろその方が多いでしょう。
それでもほのかな想念が染み込んだり、湧き出したりしてくることがあります。

日常という檻の中から出ること自体は一瞬の内に行われます。
大切なのは、意図して日常の檻の外に出て、そしてその外にいる内は、檻の中のことは忘れること。
そうして自分が生きるべき二つの世界があることを思い出すことが大切です。

神に対する思いと考えはこれまでになく深まり、清くなり、そのことは『魂の道』に記しましたが、その後も更に深化を続けています。
人として生きる上で本当に大切なことは、常に神を人生の真ん中に置くことです。
それ以外にないと今や断言します。
この神なる存在は、どんな宗教によっても捉えることは出来ません。
神のことをもっと知りたい、もっと神と共に生きたい、と心から願う人に対して、神はその姿を、あなたの理解の進捗に合わせて順次示してくれます。

神のことを分かれば分かるほど、感謝でいっぱいになります。
自分を責めることも他人を責めることも、こうであらねばと考えることもなくなっていきます。
私たち人間というものは、驚くほどに自由であるようです。
その自由を信じられないのは、やはり神から離れているからなのでしょう。
私自身、神から目を反らし、神に対して反発心を持って過ごした歳月も長いので、そのことがよく分かるのです。

ではどうしたら神を信じることが出来るのか。神に近付くことが出来るのか。
これは理屈ではありません。
神を信じる人の姿を見ることで、次第に免疫がついたり感化されたりするのだと思います。
驕るわけではありませんが、私は、神を信じ、神を愛する生き方を皆様にお見せするのが仕事だと思うようになりました。
私の存在を通して、「神か…」と皆様が次第に思うようになり、やがては「自分も…」と思うように導いていけたら嬉しいです。

私は多分、ようやく分かってきたか、本当の生き方が、と思われているのだと思います。
それで日常生活の中で、色々と面白く、不思議な、冗談のような奇跡のようなことを霊たちが起こしてくれるようになりました。
それも楽しんでいます。
しかしそのことに目を奪われ、翻弄されるのではなく、何より自分が望んでいるのは、より心を清めること、有難さに目を開くこと、もっと優しくあり、同時に強靭であること、です。

・・・

大変長くなりましたが、長く書くというのは気持ち良いものだと、久しぶりに書いて改めて思いました。
また書きます。

最後までお読み下さりありがとうございました。
毎日、皆様が魂の道を歩まれるよう祈っています。

コメント

Takeda Yuko さんのコメント…
「手紙」とされたのですね。
まさに、久しぶりにポストを覗いたら届いていた手紙のようでした。
ありがとうございました。

慌ただしくしていても、立ち止まってしまっても、すぐに「こんなことをしていていいのか」という思いが湧いてきます。
穏やかで静かな時間に喜びを感じてもすぐにそうやって不安になりがちで、ここのところその心の声が強くて消耗していました。
空の気色にふと立ち止まった時に、自分は空の下に立つためだけに今ここにいる、それ以外のことをしたらこの時間は何のためにあるのだ、と考える。そういう風にできていなかったから弱っていたことに気づかせていただきました。
色々と教えていただいているのにちっとも進歩がない自分にも悲しくなっていましたが、自分の理解の進捗に合わせてちゃんと道は示されるのだなとも改めて感じられました。
いつもありがとうございます。
カワベマサノリ さんの投稿…
そうなのです。後日改めてお知らせしようと思いますが「手紙」としました。というのは、ヒーラーという役割よりももっと深い芯の部分から湧いてくる言葉を、自然体で語りたいと思うようになってきたからです。
そして早速、まさしく手紙のように、と受け止めて頂けてとても嬉しいです。時々私書箱を訪ねて下さい。
面白いもので、この投稿を書いたら煙草がぱったりと止みました。こんなことからも分かるように、変化は自分で頑張るよりも独りでに心の中に入ってくるようです。焦らずそんな移ろいを眺めるのもまた良いことですね。

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