神への感謝
「困った時の神頼み」と昔から言う。 その意味する所、困らない限り人間は神のことを忘れているらしい。 それに対して日常的に神を祀るとは、どういうことだろうか。 毎日神を御祀りするには、神に対する認知(そもそもはこれが前提)、信頼、感謝などが欠かせない。 しかし実際には、生きていると、神への信頼も感謝も全部投げ捨てたくなるようなこともある。 そんな時でさえ神に対して感謝を抱くことが出来るとしたら、それは相当低い所から発せられる感謝、つまり〈自分が存在していること〉そのものについての感謝となるに違いない。 普通、〈自分が存在していること〉なんていうのは、当たり前のことで、感謝の対象でも何でもなく、それどころか〈自分が存在していること〉自体が呪わしく思えることもある。 神への感謝が極まると、何でもかんでも「神様のおかげ」で、カルト宗教の様相を呈してくる。 でも、それで良いのだ。 それくらいでないと、本当の信心には至らない。 私たちは余りにも当たり前の顔をして生きているから、既に充分すぎるほどのものを与えられていることに気付くことが出来ず、もっとああならこうならと、つい不満を抱き、不平を言う。 そんな人間を神はずっと見ている。 いつか気付くといいなあ、と思いながら。 私たちは本当に飢餓の国にでも生まれ変わらない限り、毎日食事できる有り難さを認識できないのだろうか。 戦乱の国に生まれ変わらない限り、今日も命を脅かされない有り難さを認識できないのだろうか。 私たちは決してそんなに愚かではないと思う。 ただ、 今の状況を感謝の目で見る「眼鏡」をかけ忘れているだけなのだ。 私は毎日、感謝を思い出すようにしている。 今日が良い日か悪い日かとは関係なく。