88 最近の、家族の出来事

両親がしばらく揉めていた。

やっていることは昔から変わらないのだが、太陽の黒点運動にでも影響されたり、先祖が祟っちゃったり、エルニーニョが発生したり、ともかく理由は何でもいいが何らかの理由によって「事が起きる」ことがある。

風邪みたいなものだと思う。

風邪を引かない時期は別に健康な訳じゃなくて、風邪として後ほど放出する毒素や穢れを溜めている時期なのだ(って、こういう生命観をぜひ知ってほしいんだがなあ)。

突発的に起きる人間関係の事故なんて、ない。

全ては潜在し、出番を待っている。


ともかくそんな状況なので、しばらく様子を見ていた。

年の瀬になって、救援を求められたので出向いていった。


難しい問題ながら、大丈夫、と心は軽かった。

中央道の車中はまたしてもブラームスの交響曲第3番。

人と人はちゃんと話し合えばそれなりに分かり合えるし、分かり合えば互いに対して優しくなれる。

優しくなれないのは理解が不足しているからで、理解が不足しているのは話し合っていないからで、話し合っていないのは「自分が正しい」とそれぞれが思っているからだ。


自分が正しい時、相手は間違っている。

だから「自分が正しい」と考えるのは危ういこと。

ロシアとウクライナ、中東だってそう。

皆、自分が正しいと信じている。

でも相手も同じように自分が正しいと信じている、そしてそれにはもっともな道理があるということが、どうしても分からない。


「人々の心に真の平和が宿るまで、国と国との間に平和はやってこない」という格言が、スー族に伝わっている。


戦争を起こしているのは、どこかの国の親分やディープステートだとか何とかではなく、本質的には私たち一人ひとりなのである。

気に入ろうと気に入るまいと、互いに理解を深めて、より良い実現を人生から引き出すという態度を学習しなければならない。

そうしなければマイナスの人生を生きることしか出来ない。

それは嫌でしょう。

だったら努力することなのだ、他人を理解する努力を。

そして自分の心を開く努力を。


でも、それはとても難しい。

他人を変えることは出来ない。

自分が変わることは出来る。

それでもやっぱり難しい。

だから変われる人から変わっていき、変われない人を助けていく必要があると思う。

色々な形で。

それは必ずしも一言の下に「変わりなさい」と励ますこととは限らないし、変わるための方法を教えることでもない。

それで頑張れる人もいるし、それでは潰れてしまう人もいる。


諸々の感情と情報の交通整理をし、誤解を解き、何がいけなかったのか、どこを改めることが出来るのか、そしてそのために求められる仕組みを提供した。

だんだん曇りが晴れていった。


じゃあね、と別れ際に母を抱き締めた。

母は私を強く抱き締め返して泣いた。

悲しくて泣いているのではなく、嬉しくて泣いているのだった。

久しぶりに母に見る、とても深く温かい感情だった。

同時に、加害者の側にいるように見えていた母も辛かったんだな、ということがよく分かった。

(ちなみに不公平は良くないから父のことも抱き締めたが、男ってえのは鈍いもんだ)


私の考えでは、「悪い人」というのは滅多にいない(稀にいることは知っている)。

だから悪い夫も悪い妻も存在しない。

ただ、悪い夫や悪い妻に「なってしまう」のだ。

知らずに悪いことをしてしまっている。

しかもそれはたいてい、自分の考える「よかれ」から始まる。


自分のよかれが他人にとっては悪いものかもしれないと知ることは、なんと難しいことだろう。

その判断と調整が出来る人なんて、悪い人と同様ほとんどこの世に存在しない。

だから、ぶつかる。

だから苦しい。


抱き締め返してくる母の腕の力の意外な強さを感じながら、結局、誰もがこうやって大切にされたいと本心では願っているんだ、と思った。

そんなものなくても全く不足しないような顔で生きていても、人は受け止められることを求めている。

それは言葉やお金や環境などを通して得られる「大切」ではなく、子供のように、ほほえんでもらうことで、抱き締めてもらうことで、手を繋いでもらうことでだけ、感じることのできる「大切にされることの喜び」なのだ。


この喜びが欠けている時、この喜びが久しい過去に置き去りにされている時、人は意固地になり、自分の殻に閉じこもり、自分は辛くたっていいんだ、どうせこんなものだ、という投げやりな態度に自身を自縛する。

そして自分に対する粗末な態度が、他人に対する粗末な態度を生み出す元となる。

でも心が開かれた時、いつもそこには、安心と慰めを求めている心がある。


皆、心の奥深くでは愛を求めている。

でもどうしたら愛を受け止められるのかを知らない。

どうしたら愛を届けられるのかを知らない。

愛を体現できない時、体験できない時、人生は本当に辛く、それが出来た時、人生はずっと輝き続けいていたことが分かる。

いつでも。

そしてこれからも。


―――――


この様子じゃ正月の準備なんかもしてないでしょう、と尋ねたら「してない」とのこと。

「それじゃ俺がおせちを作ってあげるよ」

それで、作って、送った。

げに有難きは、年末年始も働いて下さる配送業者様である。


母から電話があった。

「全てが変わった。今までのは何だったんだろうと思うほど」

「まあくんの力の凄さが分かった。こういう仕事をしているんだね」

やっとうちの親も、皆様並みの理解に追いついたかもしれない。


それを受けて私は言った。

「また悪くなるからね。

そしてまた良く出来る。

一度解決したらずっと良いままなんてことはない。

必ず、また問題が出てくるの。

悪くなって、でも努力すればまた良く出来ることを信じられることが大切なんだよ。

そうすれば何が起きても大丈夫だから」


そんなことがあった。

身内のことを書くのはどうかと思ったけれど、身内で苦労している人は多い。

少しでも何か展望を示すことが出来ればと思い、書くことにした。


皆様の幸せをお祈りします。

来年は、益々。


――――――

明日は本年最後の新月です、

もしよろしければヒーリングを是非どうぞ。

既にお申込のある方には今晩からお送りします。

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