英語体験1 人生の時計の針
3ヶ月あまり前に英語の勉強を再開しました。 だんだん調子が出てきたのでどうしても実際に使ってみたくなり、先月から複数の友人を海外に作り、英会話をビデオ通話でしています。 5月だけで15時間も話しました( 6月はそれ以上)。 手応えとしては、ちゃんと聞き取れて、ちゃんと伝わるので、驚きました。 元々学校でそれなりに勉強したのと、ごく稀にではありますが英語を使う機会があるので、そこそこの能力ではあったのですが、本当に「そこそこ」だったので、そこに限界を感じており、それが今回の学習再開の動機となったのでした。 ちゃんと出来るので驚いた、と書きましたが、ここに一つ、自己認識に対する大きな鍵があるように思われます。 というのは今回の場合、自分の能力の成長に、自己認識が追いついていっていなかったのです。 だから、「出来ない自分」という過去の時点の自己評価と「出来ている自分」という現状が食い違い、最初の内、ずいぶん奇妙な感覚を覚えたのを記憶しています。 ちょっと面白いことなのですが、先日、家の前の草木を剪定していましたら近所の方が通りかかり、お宅の木が道路標識を隠して見えないから切ってほしい、と言われました。 と言われても…、見えるのです。 見えるように切っているので。 それで、「いや、見えますが」と言ったのですが、「でもあなたみたいに背の高い人ばかりじゃないから」と言います。 と言われても、立ってもしゃがんでもどの高さでもやはり標識は見えるのです。 「いや、見えますが」 「でも角を曲がる時とか、見えないから」 困ったことに、角からもはっきりと見えるのです。 これ以上面倒を起こしたくなかったので、やっておきます、と言って話を切り上げましたが、これも似たような話だと私は思いました。 以前、実際に家の木のせいで標識が見えていないことがありました。 その時は警察が来て、切ってくれと言われました。 多分、10年以上前のその頃の記憶がその方の頭にこびりついているのだと思います。 今、現に見えるのに、見えない、というふうに、見える。 非常に興味深いことに、その方は、この会話の最中、話題の的である標識を一度も見ようとしませんでした。 どんな現象にも何かのメッセージが込められていると思いますので、このことをよくよく考えてみた所、同様のことを自分もしているに違いない、という思いに辿り着きました。