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セルフマッサージ無用論

Sさんのお便り、 「最近また、寝起きする際に目眩が少し出てました、、、道着などを入れたカバンを背負ったりしてる事も肩こりに関係してるんでしょうね💦セルフマッサージしてみます😌」 から引き出したお話をこれまでしてきた。 今日は最後に「セルフマッサージ」について。 たった二行のメッセージを送っただけで、ここまで徹底的に返してくるとは…と武道家のSさんは戦慄しているかもしれない(入れ違いで「突き刺さりました🤣吐血しそうなくらい(笑)」とメッセージがあった)。 丁度この記事を書こうとしている時にAさんがアトリエにいらしてセルフマッサージの話になった。 Aさんは最近、脚がむくみやすいと言う。 むくみにはふくらはぎの血流が関わっていることが知られている。 それでふくらはぎをマッサージしているのだけれど、イマイチ、とのこと。 実はセルフマッサージには意味がない。 というのは、あくまでも私の持論である。 これがなぜなのかということを、説明しよう。 癒やしの試みにおいては、〈癒やすもの〉と〈癒やされるもの〉が存在する。 マッサージの場合、前者が〈手〉であり、後者が〈患部〉となる。 しかしセルフマッサージでは両者共に、同じ人物、つまりAさんやSさんに属している。 ということは何を意味するのか? 肩凝りの〈患部〉に向けられる〈手〉の波動は、同じ肩凝り・むくみの人のそれなのである。 〈癒やすもの〉と〈癒やされるもの〉との間で、同質のものが交流・循環するだけなので、変化は起きるはずがない。 肉体の不調の傾向を改めるには、究極的には精神構造を改めることだ、と前回述べたが、当座の問題解決として、このような事情により、「他人にしてもらう」ことの有益性がある。 改めてもう一度言うと、自分で自分を癒すことはできない。 自分に癒やす力があるなら、そもそも病んでいるはずがない。 自分に持っていない人の助けを借りるからこそ、新たな循環が生まれ、停滞が解消され、回復が促されるのである。 しかし、これだけでは余りにもストイックに過ぎると思われるかもしれない。 以上のことを踏まえて、セルフマッサージを効果的なものにするための話を、次回に続けるとしよう。

首の凝り、血流、「こうあるべき」の考え方

私はかなり肩が凝っている方なのだが、以前はもっと凝っていた。 肩をぎゅっと上げて、回すと、ぶちぶちぶちっと音がした。 入眠時には肩凝りがことさら主張してくる。 この感覚は言葉で表せないほど気持ち悪い。 凝りの起きている箇所では血流が渋滞しているという。 目眩と肩凝りが無関係でないと前回の記事で述べたのは、その辺の話である。 というのも肩だけ凝って首が凝っていないということはまずない。 首の血流事情は ①ただでさえ通り道が細い上に ②重たい頭部を支えるためにいつも力が入っており、 ③更にその頭部は多量の血液を必要とし、 ④おまけに重力に逆らって上昇する というわけで、非常に渋滞しやすいものとなっている。 脳に充分に血が回らなければ目眩もする。 (他にも理由があるかもしれないことは、忘れてはいけないが) それでどうして首肩の凝りを「根本的に」改善するか、という話なのだが、 究極的には物の考え方や感じ方を変えていかないといけない。 というのは、肩の凝るような、首の凝るような考え方をしているから肩や首が凝っているからである。 それは色々あると思うが「こうであるべきだ」というような考え方かと思う。 ただ、そう言っても「私は別にないけどな」と思う人も多いかもしれない。 そんな場合には、他人に向ける目に、この〈成分〉がないか、観察してみると良い。 例えば「ちっ、何だよ、あいつ」と思う、「ああいう人ってさ」と思う、「ああいうことはけしからん」と思う、そのような時、判断の基準に必ず「こうであるべきだ」という正解、正当がある。 自分に対しては特に禁止をしているつもりがない人も、 もし他人や社会に対して怒りや不満や軽蔑が多いとしたら、「こうであるべきだ」の考えが、自分の精神構造で支配的な働きをしている ことになる。 同じ目は、自分にも必ず向いている。 ただ、慣れているので気付いていないだけなのだ。 こういうことが究極的に、肩や首の凝りの原因になっている。 見方を変えると、肩凝りや首の凝りは、「凝ってまっせ、その考え」ということを私たちに教えてくれている。

目眩、肩凝り、姿勢

昨日季節の変わり目の体の異変についてお話したが、Sさんにもその兆候が感じられた。 ところでそれとは別に、暫く前から時々目眩がすると言っている。 これについてはちょっと何とも言えない。 私も目眩がする時期がよくあった。 何もしない内に、目眩がなくなった。 言うまでもないことだが、病院に言っても説明を得られないことは多い。 このようなことについてはまた後日お話するとしよう。 「最近また、寝起きする際に目眩が少し出てました、、、道着などを入れたカバンを背負ったりしてる事も肩こりに関係してるんでしょうね💦セルフマッサージしてみます😌」 Sさんに見られたのは重めの肩凝りだった。 目眩の原因のいくらかは肩凝りにあると思う。 ならば肩凝りをほぐしたらいいのだ、ということになるのだが、話はそう簡単ではない。 凝りや歪みについて、よく「片方だけで鞄を持ったりするからでしょうか」と尋ねられることが多いのだけれど、私の考えでは、私たち現代日本人にそれほどの荷重がかかっているとは思えない。 例えばデスクワークだって体には相当の負担だが、「デスクワークなので」姿勢が悪くなる人もいれば、「デスクワークにもかかわらず」姿勢が良い人もいる。 結局、その人の、姿勢を保つ意志にかかっている。 同じことは重たい荷物にも当て嵌まると思う。 「それにもかかわらず」肩が凝らない人がいる、という事実に、私たちは目を向けるべきだと思う。 ではどうして肩が凝るのか? という問いについては、引き伸ばして申し訳ないがまた次回お話することにしよう。 今日はもう長くなってしまったので。

季節の変わり目の症状

先日の乙女座満月のヒーリングの時、季節の変わり目ゆえかなと思われる状態を数件、遠隔視で確認した。 こういうことは勘でしかないので、なぜ、何を以て、というのは説明できないのだけれど、何となく張り詰めた感じがする、というような印象を受けた。 またコロナ、インフルエンザ、色々あると思うが、ひとまとめにして、風邪の訴えも最近多い。 参考までに片山洋次郎著『整体から見る気と身体』を開いてみよう。 「一般に 体のバランスを何かに対して変えようとする時に、風邪という形で出てくる 。例えば季節の変わり目で、体が新たな気候に対応するためにバランスを変えようとする時には、元のバランスを崩さなければいけませんから、そのために風邪になると考えて良い。ただし 素早く移行してしまう場合には、風邪という形で表面に出ない 」 勿論、これは全ての風邪に対する説明ではなく、また風邪は必ずこうだということでもない。 こうも解釈できるし、こういうことが起きていることもある、ということ。 風邪の外因は ウィルスだけれど、内因の方が大きな決定力を持っている。 (だからどんなに風邪が流行っても、引かない人は引かない) 「内因」は色々な箇所から、または全体から推察することができる。 だいたい延髄の詰まり具合で見て取れる。 延髄を詰まらせる直接的な原因は、緊張や疲労、変な食べ物、電磁波、その他諸々。 もっと根本的な問題もあるが、それは後日改めて。 先日Xさんへのヒーリングをしていた時、風邪の一歩手前だった。 ご本人にはそれほど自覚がなかったようだが、ドミノの列が崩れ出すようなそんな印象だった。 早めの対処が望ましい。 前傾、 「 素早く移行してしまう場合には、風邪という形で表面に出ない 」 この風邪になるまでもない移行の過程が、今回は多く観察されたかもしれない。

『アイスの国のバニラ姫』

先日 『いのちの星 のドーリィ』 についてお話したが、今日はまた別のアンパンマンの映画作品 『アイスの国のバニラ姫』 についてお話をしてみよう。(2019年作品) この作品を観て私はつくづく、人の悩みは世につれ、だな…と感じた。 どういうお話かと言うと、ある所にアイスクリームの国がある。 そこの姫にはアイスクリームを作る使命があり、大臣の監督の下、日夜練習に勤しんでいるがいまだ成功していない。 嫌になって王国を飛び出しアンパンマンの町に至る。 そこでバイキンマン絡みで色々あって、最終的にアイスクリームを作れるようになることで諸々の問題が解決される、という顛末なのだが、この姫がなぜアイスクリームを作れなかったというと、 そこに喜びがなく、悲壮な使命感しかなかったから なのだった。 どんなに頑張っても、彼女の魔法のスプーンからはアイスクリームも一欠片さえ生まれ出ないのだった。 いくつかの会話を通してバニラ姫は、自分には〈したいこと〉がないこと、〈すべきこと〉しかないことを自覚する。 そして、したいこともなく、すべきことも出来ない自分には価値がない、と彼女は感じる。 印象的だったのは「ここの皆は楽しそう…」と姫が呟くシーンである。 これはアンパンマンの歴史として、なかなか無視し難いものではないだろうか。 というのは、アンパンマンの世界では皆が楽しんでいるのは当たり前すぎるほど当たり前のことで、そのような状況に対して驚くような者はかつて誰一人としていなかった(これまで観た限り)。 バイキンマンだって、自分の悪行を心から楽しんでいる。 言うまでもなく、姫のこの独白は、この数十年間の日本人の精神世界の変質を映しているものだろう。 私が子供だった頃のアンパンマンには、自分自身の価値を問う、このような内面的な問いはなかった。 誰もその内面において虚無ではなかった。 時代につれ、アンパンマンの世界も変質してきているのだなあと感じた。 決してこの映画作品にケチをつける訳ではなく、こんな問い自体が子供の心に生まれない世界になってほしいと思った。

乙女座の満月

乙女座の満月である。 この満月の数日前、久しぶりに口内炎が出来た。 お腹の張る感じもあった。 これは乙女座が来ているな…と思った。 肉体における乙女座の該当部位は、内臓である。 『誕生日大全』は、乙女座の気質を以下のように説明している。 「清潔や栄養に関心を持ち、運動や健康的な生活スタイルの信奉者です」 「乱雑さを嫌い、完璧を求め、効率的に仕事をこなします」 「常に理想を求めて分析を改善を繰り返します」 色々と合点が行った。 まどかの「ひみつきち」からの流れで、押入れの整頓、更に及んで納戸も整理した。 だらしなさゆえに複数箇所に散らばっていたものを一箇所に集約した。 結果、余計な棚が一つなくなった。 また、夜眠る前に、部屋をすっかり片付けるようになった。 そしていつもよりも一層深いレベルで肉体の淀みを感じることが出来たので、それに見合ったエクササイズを一つ追加することにした。 全て、上記の乙女座の気質に関わることである。 私の中で乙女座成分はとても弱いのだが、近年の真面目な取り組みによって、ようやく育ち始めてきたかもしれない。 以前はだらしなさ100%のような人間だったので、ささやかながら大変化である。 これくらいの変化が起きると、 〈過去の状態〉が何らかの形で排出される 。 思うに、今回は、口内炎がそれだったようだ。 本日、乙女座の満月。 ヒーリングのお申し込みをお待ちしております。 【スケジュール】 2月24日(土)乙女座満月 3月10日(日)魚座新月 3月20日(水)春分 【メニュー】 ①カウンセリング 10000円 ②ヒーリング 10000円 ③リモートカウンセリング 7000円 ④遠隔ヒーリング(お布施) ヒーリングアクセサリー 「プレローマ」 36000円 【お問い合わせ下さい】 ①LINE:atelierkoshiki ②microcosmo.healing@gmail.com ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ホームページ: https://www.microcosmo-healing.com/

子供の心と〈他者〉

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月に一度以上の頻度で会っている姉だが、我が子まどかに会うのは二年ぶりのことだった。 その時の様子が面白かった。 外部から人が来たので、勇んで〈自分の〉色々なものを見せたがった。 「あとね、こんなのもある」と言って、普段は目もくれないようなものまで取り出しては姉に誇らしげに見せている。 お父ちゃんにも見せたことのない、〈へんしんポーズ〉なんかもして見せる。 なるほどなあ、と思った。 こうして、 人は他者に会うことによって自分を輝かせることを欲するのだ 、と。 そしてその自己主張はまったく本能的なものなのだ。 おとうちゃんとの間では、情報を充分に共有している。 そこには当然ながら、自分を示すべき〈他者〉が存在しない。 時間の全てが〈自己〉というようなものだ。 他者との出会い、他者と過ごす時間こそが、自分が何者かということを自分自身に教えてくれる。 考えてみたら、それはすっかり自分にも当て嵌まることだった。 しかし他者というなら誰でも良い訳ではない。 「おとうちゃんのおねえちゃん」だったから上のような反応になったので、見ず知らずの人だと拒絶的になる。 先日はご近所の方とお話していたら「おはなししないでえ」と言って泣き出したし、公園では知らない子供との間に明らかな心理的距離を取っている。 自分を好きになってくれる確かさのある相手にだからこそ、「ぼくの」全てを見せたくなる。 これもやっぱり、自分にも当て嵌まることだと思った。 明日は乙女座の満月です。 ヒーリングのお申し込みをお待ちしております。 【スケジュール】 2月24日(土)乙女座満月 3月10日(日)魚座新月 3月20日(水)春分 【メニュー】 ①カウンセリング 10000円 ②ヒーリング 10000円 ③リモートカウンセリング 7000円 ④遠隔ヒーリング(お布施) ヒーリングアクセサリー 「プレローマ」 36000円 【お問い合わせ下さい】 ①LINE:atelierkoshiki ②microcosmo.healing@gmail.com ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ホームページ: https://www.microcosmo-healing.com/

「ひみつきち」

まどかが泊まりに来た。 今月2回目、しかも今回は延泊して、二泊三日となった。 子供に好いてもらえて嬉しいことだが、同時にこの少ない機会を通して、彼を導き、癒やし、勇気づけてあげたいとも思う。 この時分の子供の心は可塑性(*)に富んでいる。 (*外部の力によって生じた変形が永久に持続する こと) というか可塑性そのものである。 心の全容を観察しながら、状況ごと、テーマごとに、教えたり、黙認したり、励ましたり、戒めたり、本当に絶妙微妙なコントロールが求められるのを感じる。 それはさておき。 まどかは押入れを「ひみつきち」にすることを覚えた。 とても気に入ったようで、押入れの中で一緒に色々な遊びをした。 面白いものである。 この家に暮らして25年ほど、押入れの中でこんなに長い時間を過ごしたことはなかった。 住み慣れた家の中にも、未知の領域がある。 子供が帰った翌日、押入れの整理をした。 せっかくの秘密基地なのだから、上段も下段も彼専用にしてあげようと思った。 おかげですっきり片付いた。 何年もの間、時が止まったかのようにそこにあり続けたものが、あっさりと動いた。 新しく明るいエネルギーは、古く淀んだ時間を動かしてくれる。 ついでに玉突きのように、あそこもここもと整理の手が及んだ。 反省した。 なぜこうもいつまでも「完璧」と思えるまでに整理が出来ないのか。 言うまでもなく、自分の性分のせいである。 スペースがあるとすぐそれに甘える。 不要のものを取っておいたり、決定できないものを惰性で留保する。 そういう精神構造は本当に良くないもので、この数年は回り回って何度もそこにメスが入っている気がする。 まだまだである。 反省しつつ整理をすると、当たり前のことだが家の空気も軽くなったように感じられた。 明後日は乙女座の満月です。 ヒーリングのお申し込みをお待ちしております。 【スケジュール】 2月24日(土)乙女座満月 3月10日(日)魚座新月 3月20日(水)春分 【メニュー】 ①カウンセリング 10000円 ②ヒーリング 10000円 ③リモートカウンセリング 7000円 ④遠隔ヒーリング(お布施) ヒーリングアクセサリー 「プレローマ」 36000円 【お問い合わせ下さい】 ①LINE:atelierkoshiki ②microcosmo.healing@gmail.com ー

『いのちの星のドーリィ』

子供のおかげでよくアンパンマンを観る。 先日は 『いのちの星 のドーリィ』 という作品を観て、感動の余り泣いた。 皆様にも是非観てほしいものだが、大人がアンパンマンを観る時間はなかなか無いと思うので、代わりに私が、 どんなお話だったか簡単にご紹介しよう。(2017年作品) ある時、捨てられた人形が洋上を漂っていた。 アンパンマンはそれを拾い上げて、パン工場に持ち帰る。 人形には心が宿り、自分で動くようになる。 この人形、ドーリィは「生きている」ことに感動し、色々なものに夢中になる。 やがてピノキオの例にもある通り、自己中心的で傍若無人になる。 幼稚園の友達は一人また一人と減っていき、最後には冷遇される。 ドーリィはアンパンマンに食ってかかる。 「自分はせっかくこうして自分の意志で生きられるようになったのだ、自分の好きなことだけして何が悪い。なぜアンパンマンは人のために働くのだ。そんなのは偽善だ」 それに対してアンパンマンは「誰かのために働くことは幸せなことだ。その人が喜んでくれた時、自分も幸せになる」と答える。 ドーリィには理解できない。 同時に、自分はやりたいようにやっているだけなのに、どうして皆に冷遇されるのか分からず、初めて寂しさを覚える。 実はドーリィには時限的な生命が与えられているに過ぎず、心を閉ざすにつれて生命の火は弱くなっていく。 自分が再び動けない人形に戻ってしまうことを予感して、絶望的な気持ちになる。 それからバイキンマンが新型兵器を引っ提げてやってくる。 アンパンマンは身を挺してドーリィを守り、最後には石化してしまう。 この時に及んでついにドーリィは誰かのために生きることの尊さを知り、残りわずかな自分の命を与えることによってアンパンマンを復活させる。 ドーリィは再びただの人形に戻ってしまうが、宇宙の祝福を受けて、再生する。 しかし今度は高慢な女の子ではなく、心優しい子として蘇った。 という話なのだが、アンパンマンの主題歌の 「何が君の幸せ/何をして喜ぶ/分からないまま終わる/そんなのは嫌だ」 に対して、これほどまでに明確な回答を与えている作品は他になく(今まで観た限り)、その点で出色の出来となっている。 この作品には、確かに降りてきているものがある。 誰も死なないことになっているアンパンマンの世界の中で、 ドーリィという、 命に時間制限がかせられ

「なんでもしってるんだよ」

まどかは色々なことを知っていて、色々なことが出来るので、 その都度驚かされる。 それで「凄いね、そんなことも知っているんだ」「そんなことも出来るんだ」と言うと、「まあちゃん、なんでもしってるんだよ」「なんでもできるんだよ」と言う。 その発言を頭の中で再生させ、しばらく転がしていたら、神についての理解が一つ深まった気がした。 神は全知全能かそれに近い何者かであると私たちは素朴に考える。 そこに理屈は要らない。 その全知全能ゆえに、私たちは神を、親に類したものと考えがちである。 しかしもしかしたら「なんでもできる」「なんでもしってる」という子供時代の自然な自己評価――これこそが私たちに、「神を知っている」と思わせる記憶、心の故郷の真実なのではないだろうか。 ここに、大人の延長としての神ではなく、子供の姿をした神の姿が浮かび上がる。 成長するにつれて、現実には自分は何でも出来る訳でも知っている訳でもなく、それどころか、つくづく無力であることを理解するようになる。 心の故郷、神から離れ、人間の道を歩むようになる。 古来、子供は神に近い存在とみなされてきた。 「自分は全知全能である」とか「自分には制限がない」という自己認識に留まっていることが、神と子供の共通項なのかもしれない。 してみると、成長し大人になった私たちが、「自分は全知全能だ」とは言わないまでも「自分には制限が(本当は)ないのだ」と知ること、心新たに挑戦したり、遊んでみたりすることこそは、神に還る道と言えるのではないだろうか。

お酒の飲み方 2

随分前の話の続き。 2月5日に 『お酒の飲み方』 という記事の中で さりげなく「 もうお酒はいっぱい、と思ったら、 満足いくまで お湯を飲む」と書いたが、実際これが難しいのではないかと思う。 体と心はいつも一体となってメッセージを発している。 だからお酒が体に良い内は美味しくて (昔から「百薬の長」という) 、きつくなってくると美味しくなくなってくる。 この変わり目でお酒をやめるのが良い 。 でも人間は二重法体制のような生き物なので、心身の戒めと頭脳の欲求が食い違うことがしばしばある。 日頃から心身のメッセージの方に重きを置いていると、そのメッセージになびきやすくなるが、そうでないと難しい。 きりなく飲んでしまうとか、注がれるままに飲んでしまうとか。 しかし体は日々学習している。 この飲酒量だと明日はまずい、と判断した時点でメッセージを送ってくる。 お酒を美味しく感じられなくするのだ。 もっと感覚を研ぎ澄ますと、盃が重くなるのを感じることも出来る。 その時、お湯を飲むとこれがすこぶるおいしい。 「待ってました、これですこれ」という感じ。 やがて、お湯ももう要らなくなる。 つまり「これだけ水分が得られればアルコール分解も首尾よく運ぶでしょう」と体は言っている。 これを超えて飲むと、多分、夜トイレに立つことになる。 心身の内なるリズムと共に生きている人と飲むと、この感度が保たれやすい。 アトリエこしきで飲むお酒は翌日に尾を引かない、とよく言われるのも多分そのためかと思われる。 供される食事の質もあるとは勿論思うが。 こう考えると、お酒を飲むのも奥が深いものである。

子供の記憶

先月末にコロナを発症し(この日本語は変だと思うのだが)、辛いの自体は4日ほどで終わったのだが、その後、舌に異変が生じてこれが収束するのにその後2週間近くもかかった。 さながら火傷か切り傷のようで、ウイスキーを飲んだら火を吹くかと思った。 夜に一気に体温を上げたいらしく、寝汗も随分よくかいた。 何が起きていたのか分からないが、体はこんなふうにして戦い、戦いの後処理をしているんだなあと、改めて感心した。 それにしても自分は忘れっぽい。 よくあることだが、他人の方が覚えてくれている。 「この前の時も大変だったよね」と姉に言われ、それがいつのことだか、何が起きたのか思い出せなかった。 先月のコロナ不調でさえ、具体的にどういう症状だったのか早くも既に記憶がない。 私の忘れっぽさはどうも母譲りなのだが、こういう人間の記憶回路はどういうことになっているのだろうか。 記憶と言えば、面白いことがあった。 まどかが最近言ったことなのだが、赤ちゃんの時、ミルクを飲んでいたか思い出せないと言った。 ほお、と思った。 その語り出しは、「おぼえてないことがあるの」だった。 記憶空間が暗闇だとしたら、そこに向かう記憶呼び出しの働きかけはスポットライトを当てるようなものかと思う。 子供には子供なりに小さな記憶空間があり、その中をよく探したけれど見つからなかった、という印象がよく伝わってきた。 私は自分自身に4歳くらいまでの記憶がないから、子供はどんなふうに内界を見つめているのだろうかと、とても新鮮に思われた。 人間の心は、本当に不思議なものである。

「好き」センサー

自分の好みというのは、意外なほど自分でもよく分かっていない。 最近『名将言行録』という、戦国武将の伝記集を再読していたのだが、これが面白くて読み耽っていた。 特に戦国時代が好きという訳でもないのだが、何やら心惹かれるものがある。 何なのだろう、この感じは、と考えると、どうやら自分は、物知りのおじさんから含蓄ある昔話を聞くのが好きらしい。 それで、「へえ、なるほどなあ」と思う、どうもあの感じが好きなようだ。 自分のことなのに「好きなようだ」と感じてしまうほど、ぼんやりしている。 知識コンプレックスがあるので、色々なことを知っていた方が良いかと思い、苦手な分野にも手を出して学ぼうと思うのだけれど、やっぱり向いていないものは頭に入らない。 それ以前に、読んでいても楽しくない。 この点が、重要だ。 興味関心の性向というものは基本的に定まったものだから、「好みの話題」以外はどんなに頑張ってもなかなかその距離は縮まらないものである。 結局、 開き直って「好き」をとことんやっていくことかな 、と思う。 それと並行して、「好き」センサーを高めていく。 というか、自然と 「好き」センサーが 高まっていく。 最近よく言及する「役に立つ/立たない」という話でもあるのだが、「知っておくと役に立つだろう」というような知識獲得にはやはり下心がある。 実際、役に立つかもしれないが、心を耕してくれるかどうかは別である。 この「心を耕してくれる」ということが、何事につけても大切だと思われる。

オーラは見える

冬が終わろうとしている。 名残惜しいことである。 冬はストーブを焚く。 その上で薬缶がカタカタと音を立てている。 そんな季節ともお別れかと思うと、毎年残念な気持ちになる。 週間天気予報を見たら、火曜日辺りから気温が上がるようだった。 季節の変化を、体は鋭敏に感じ取っている。 だから季節の変わり目には風邪を引いたりもする。 気分も変わる。 春が来ると、木々の芽吹きと調子を合わせるように、何かやる気が湧いてくる。 冬の間は、やはりまた固い蕾のように、己の内に沈潜している。 ある朝、いつものようにシャツに袖を通すと、違和感を覚えた。 この服ではない…と感じた。 そのシャツはクリスマスを思わせるような、温かな柄物だった。 これが唐突に、厚ぼったく感じられた。 鏡の中に、いるべき自分がいない気がした。 なるほど、季節が変わったんだな、と思い、白のシャツに変えるとしっくり来た。 白のシャツは、冬の間中、着る気がしなかったものである。 オーラは目に見えないというが、こうして服の形で確かに可視化されている。 ここで私が言いたいオーラは「あなたは紫…」というようなことではなく、天地自然の移ろいと呼応しながら日々変化し続けるオーラである。 このことに気付いたので、「今日の服」を選ぶのが毎日楽しみになっている。

『遺書2024』

『遺書2024』を書き終えた。 どっと何かが抜け落ちたようで、今、気持ちが晴れ晴れしている。 実は秋頃から断続的に挑んでいたのだが、今回は非常な難産だった。 この一年間で自分が大変化したのが分かる。 内面の中心近くが、別人に生まれ変わっている。 以前語れていたことを語れない――そんな自分を発見した時、「では何を語るのか」というのはなかなか掴み難いことだった 。 試行錯誤したが、最終的に、今の自分、新しい自分にとって、心からお伝え出来ることを文章にまとめることが出来た。 今回の版は一つの大きな達成であり、また完成版と見做せると考えているので、この『遺書2024』をもって、『遺書』更新の事業は打ち止めとしようと思う。 と言ってもお蔵入りにすることはなく、いわばアトリエこしき認定教科書として、今後も機会を見つけては利用していきたいと思う。 ・・・・・・ このたびも、配布をしようと思うので、ご興味のある方はお求め下さい。 過去に『遺書』をご購入された方には無料進呈(PDF)、新規の方は1万円です。 補講をオンラインで開きます。 こちらの参加費は3000円です(新規ご購入の方は無料)。 1−2時間を予定。 補講に際して、事前に質問/異論/感想などをお伝え下さい(一人最低1点)。 それにお答えする形で進行します。 是非話題をお持ち寄り下さい。 参加者は多くないと見込んでいるので、参加希望者の候補日を募って調整したいと思います。 ただし上手く噛み合わない場合には、最多参加者数が見込まれる日とさせて頂きますので、ご容赦下さい。 後ほど録画をご覧頂けます。 2月20日ー3月10日の間で候補日をお伝え下さい。 よろしくお願いします。

霊障

「霊障」とは何か? 言葉で説明するのは難しいのだが… 一種の心霊的な力の働きによって諸々の不具合が起きることを言う。 霊障によって妄想に拍車がかかる人もいるし、病気する人もいるし、事故を起こす人もいる。 霊障を得る人と得ない人は、もうきっぱりと二分される。 「へえ、そんなこともあるの」と思うような人は、多分一生縁が無い。 「霊障ね、あるんだよね…」と思う人には、やっぱりその素質がある。 霊障をどう解くか? ということについてだが、小細工は通用しない。 これは本当に。 霊障を解くために神社詣でなんかしていると、そのせいで霊障が強化される。 というのは「問題から逃れたい」という強いこだわりこそが、霊障に対する最強の磁力となるからだ。 だから「ははは、ま、仕方ないな…」くらいの態度でいることが、実は霊障から抜ける一番の方法ということになる。 世の中には真面目に考えないことが重要ということもある。 霊障と言うと、どうしても霊的存在が云々…と考えがちだけれど、それもそうなのだけれど、もっと手近な所を押さえて言うと、やはり精神的なものである。 苦しみ、悲しみ、怒り、囚われなどなどと言った心の状態が心霊的(サイキック)な力を発現させる源となる。 何某の霊が霊障の発信源、という判断ももちろん間違いではないのだが、更にその奥の源は自分の心である。 気楽にいきましょう。 「リラックスしなきゃ」なんて思っちゃ、駄目ですよ。 どーでもいいじゃん、くらいに思うのが、コツです。

夜眠れない

Kさんは夜なかなか眠れず、昼寝で体を回復させていると言う。 こういうことは、実はある。 昼と夜では、波動的な環境が違う。 昼寝の方が深く眠れるのは、昼の方が条件が良いからなのである。 と言っても普通は夜に眠らなくてはいけないから、これがなかなか厄介。 夜に眠りづらい人は、何らかの霊障を受けいている。 「じゃあ、どうしたら」と言っても、対策がない。 フルで働いた日でも、眠れない時は眠れない。 体をリラックスさせても、眠れない時は眠れない。 どうしようもない。 今夜がアタリかハズレかは完全に運次第。 「霊障」なんて聞くと「それは大変だ、すぐに解かなくては」と思ってしまうかもしれないが、解けないのである。 身も蓋もない話だが。 何というのか、これは北国に雪が多いのと同じような話で、仕方がない。 私も最近はましになったが、以前は酷かった。 朝起きるとげっそりやつれ果てている、なんてことも多かった。 そんな私からのアドバイス。 同じ状況でも、それを苦しむよりも 「ま、仕方ないな」と開き直ってしまうと、割と楽にしのげたりする。 そんな時のイメージとして、ちびまる子の父ヒロシを、私はよく思い浮かべる。

寝物語

まどかは生活のリズムが整っているらしく、午後9時くらいになると、「もう、ねよう」と自分から言う。 布団に入ると「おはなしして?」と言う。 アンパンマンが好きなので、そのお話をする。 小さなお話をいくつかする。 一つのお話が終わると、 「つぎはおむすびまんのおはなしをして?」というふうに続く。 目を輝かせて聞いている。 そのくせ、話の終わりまで来て、「おしまい?」と聞き、「そうだよ」と私が答えると次の瞬間にはもう寝息を立てている。 真似しようにも出来ない芸当。 子供とはこのようなものかと感心する。 寝物語の楽しさというのは、本能的なものなのだろうか。 次またその次とお話を求めるその姿は『千夜一夜物語』に通じる所がある。 さしずめ私はシェヘラザードだが、眠気が勝って敵わない。 それなのに、子供が眠りに落ちると入れ替わりに目が冴えてしまって、その後暫く眠れない。 その横で、子供はずっと寝息を立てている。 自分自身もまた、寝床に入ってから読むのに楽しい本があると、そんな夜を心待ちにしている。 お話を聞かせてもらう喜びは、大人になっても消えることがないようだ。 読みたい本がない夜には、眠るまでのひとときは物足りなく思われる。 なぜなのだろう? なぜ眠る前に、人は物語を聞きたくなるのだろう。 本当に不思議なことである。 最近では、田辺聖子が訳した『今昔物語』がとても面白かった。 まさに夜にお話してもらうのにうってつけだった。 それとラリー・バークダルの『ナゲキバト』。 これは本当に素晴らしい宝物のような小説である。

最近の筋トレ事情

筋トレは2−3日に1回が良いと一般的に言われている。 で、長らくその通りにしていたのだが、最近、毎日するようになった。 結果、明らかに筋肉の付き方が効率化している。 多分、「2−3日に1回」は、その1回を極限まで追い込むトレーニングの場合のことなのだろう。 そこまでやらない場合、毎日ちょこちょこやっていった方が効率が良いらしい。 気分的にも、「2−3日に1回」ペースよりも毎日の方が実行しやすい。 深部体温のバイオリズムの関係で、夕方が最も筋肉の動きが良いと言われている。 夜はどうしてもお酒を飲みたいので、お酒を飲む前に、やれ! という感じで自分を仕向けやすい。 腕立て伏せとスクワットを、3周くらいずつこなす。 ちなみに、腕立て伏せにはプッシュアップバーを使うのが良い。 私らしからぬ言葉をあえて使うが、これはコスパが良すぎる。 2000円くらいで買えて、しかも場所を取らず、効果範囲は広い。 腹筋は言うに及ばず、背筋にもしっかり利くのが良い。 前にも話したが、筋トレは美容的な観点でお勧めである。 肉体には、自己認識に関する根本的な何かがある。 ボディービルダーになりたいわけではないが(あれに美は感じない)、以前より厚みの出てきた自分の肉体を見ると、「うん、良い」と素直に感じる。 これは自尊心に対する刷り込みとして非常に有効だと思う。 鏡を見るたびに「う〜ん、自分って」というのと、どちらが精神衛生上、良いか、言うまでもない。 自信や自尊心や自己愛の獲得や醸成を精神論だけでやろうとするのは無理がある。 これは経験上の持論。 そのための方法は色々あると思うけれど、私は肉体を磨くことを楽しんでいる。 あなたもご一緒に、いかがですか。

水瓶座新月(と何の関係もない話)

先日お店でまどかにソフトクリームを食べさせていた。 離れた席に座っていた子供がぐずぐず言って、お母さんに叱られていた。 まどかは言った。 「あのこ、なきそうだね。まいにち、いやなことでいっぱいなのかも」 感心した。 「毎日嫌なことでいっぱい」だなんて言葉の組み合わせをできるほどになったのかと思った。 何に感動したのか未だによく分からないのだが、とにかくとても印象的な発言だと思われた。 多分… 「今、泣きそうである」という瞬間の様子から「いつも泣きそうである」というその背後の持続的状態に推理を向けたことに、感心したのかもしれない。 私は尋ねた。「まあちゃんはどう? 毎日嫌なことでいっぱいじゃない?」 「まあちゃんはね、まいにちいやなことでいっぱいじゃないよ。でもときどきいやなことがある」 「それは何」 「こないだは、(多分レゴなど)うまくつくれなかったときに、くやしくて、ないちゃったんだ」 何とかわいらしいことよ。 そう思って我が身を省みると、年中ピアノで躓いても、悔しくて泣きやしない。 大人だから当たり前とも言えるが、子供のきらめくような心を前にして思うのは、単に鈍感になっただけなんじゃないかということ。 考えたら、一芸でプロになるような人は、上手く行かないと悔しくて泣くくらいの繊細の心を持っているのではないかという気がする。 それくらいだからこそ一流になるのではないか。 次は私もピアノで悔しがってみることにしよう。 最後に、大笑いしたこと。 「こんなさむいひにつめたいものたべたら、おなかこわれちゃうよね。 バラバラに。 ほねまで」 大笑いした。 全然関係ない話でした。 今日は水瓶座の新月です。 お申し込みをお待ちしています。   【スケジュール】 2月10日(土)水瓶座新月 2月24日(土)乙女座満月 【メニュー】 ①カウンセリング 10000円 ②ヒーリング 10000円 ③リモートカウンセリング 7000円 ④遠隔ヒーリング(お布施) ヒーリングアクセサリー 「プレローマ」 36000円 【お問い合わせ下さい】 ①LINE:atelierkoshiki ②microcosmo.healing@gmail.com ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ホームページ: https://www.microcosmo-healing.com/

鈍感

Sさん 「周りの人を見ていても、私自身でも思う事なんですが、感性を磨くってなかなか難しい事で、大きく纏めると才能が要るのかもしれないなぁと改めて思いました😅(他にも要素は色々あるんでしょうけど)まずは自分が求めないと手に入らないですね」 全く仰る通りです。 そのために必要なのは、「自分は恐ろしく鈍感だ」ということを知ることです。 恐ろしく鈍感だからこそ、鋭敏に繊細に感じようという動機が生まれます。 これに関してふと思ったのが… さねさし相模の小野に燃ゆる火の 火中に立ちて問ひし君はも(おとたちばなひめのみこと) という和歌があります。 意味は 「相模の地で火攻めに遭った時、炎の中で私の身を案じて下さったあなたよ」 です。 ヤマトタケルの妻の弟橘媛(おとたちばなひめ)はこうして最期の和歌を詠み、海神の怒りに身を捧げて海を鎮めたのでした。 「あなたがあの時、身を挺して私を助けてくれたように、今、私がこの身を挺してあなたを助けます」と。 この和歌を初めて知った時、不覚にも「ふーん」と流していた私。 これが鈍感ということです。 きっと映画の観過ぎなのです。 超スペクタクルじゃないとびしびし感じないようになっている。 目にも浮かばないようになっている。 よくこの歌の心の中を覗き込んでみることです。 すると、その思いに圧倒されることでしょう。 言えないよ、こんなこと。 自分の鈍感を一応自覚しているつもりなので、何事も我が身に重ねて感じるように、できるだけしています。 そうすると少しは人間らしくいられると思えるからです。 明日は水瓶座の新月です。 お申し込みをお待ちしています。   【スケジュール】 2月10日(土)水瓶座新月 2月24日(土)乙女座満月 【メニュー】 ①カウンセリング 10000円 ②ヒーリング 10000円 ③リモートカウンセリング 7000円 ④遠隔ヒーリング(お布施) ヒーリングアクセサリー 「プレローマ」 36000円 【お問い合わせ下さい】 ①LINE:atelierkoshiki ②microcosmo.healing@gmail.com ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ホームページ: https://www.microcosmo-healing.com/

神の12の教え

昨日のブログで、「と神様は教えています」と書いた。 ちょっと最近、そのことについて考えていた。 自分は神様から色々教えてもらってきたのだが、うっかりすると自分の持論みたいに語っている。 少なくともそう思わせてしまっているかもしれないと思った。 そもそもの始め、自分は霊的作法のようなものを何も知らなかった。 だんだん教えてもらって、それを人にも伝えるようになっただけなのだ。 この「神様から教わったことを皆さんにもお伝えしている」という事実を、もう少し強調したほうが良いのかもしれない。 その方が、もしかしたら皆さんにとっても飲み込みが良いかもしれない。 そんなことを考えて、アイデアを練っていたら、上手いこと12の教えに収まった。 おいおいブログでも紹介しつつ、『遺書』として文章にまとめようかと思っている。 しかしいざ書こうと思うと、本当に難しいものである。神の教えというものは。 いつ出来るかは全く未明ですが、すごく良いものになるのではないかという気がする。 明後日は水瓶座の新月です。 お申し込みをお待ちしています。   【スケジュール】 2月10日(土)水瓶座新月 2月24日(土)乙女座満月 【メニュー】 ①カウンセリング 10000円 ②ヒーリング 10000円 ③リモートカウンセリング 7000円 ④遠隔ヒーリング(お布施) ヒーリングアクセサリー 「プレローマ」 36000円 【お問い合わせ下さい】 ①LINE:atelierkoshiki ②microcosmo.healing@gmail.com ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ホームページ: https://www.microcosmo-healing.com/

美しく 2

美しいかどうかで見れば、色々なことが自ずと分かるようになります。 過去にこだわることは、昨日までの汚れのついた服を着るようなもので、美しくないことです。 過去のものは過去のものにして、今日をさっぱりとした新たな服で生きる―― これがとても大事なことです。 今日を新たに生きる人には新たな今日が開かれます。 と、神様は教えています。

美しく

美しく。 顔貌 (かたち) だけでなく、生き方、住まい、色々なもの、色々なことを。 歩き方も話し方も何もかも。 美しさを出せる場所はどこにでもあります。 美しくするとそこにバリアが生まれ、あなたを守ってくれます。 そのバリアを壊す人もいるかもしれませんが、そうしたらまた美しくすれば良いだけ。 でも他の何よりもそのバリアを壊してしまうのは自分自身だということを忘れずに。

お酒の飲み方

私の敷布団ではないが、意外な(と言っても、本人にだけ)所に盲点がある。 先日Sさんの体調についてお話していた時にふと気になって、「お酒を飲む時、水も飲んでいますか」と尋ねたら「飲んでいない」とのこと。 これなんかも、敷布団同様、初歩的な問題である。 それより以前に、Sさんは風邪を引きやすいことを気にしておられた。 体質…と割り切って良い話ではない。 やはりどこかに盲点があるはずなのだ。 お酒を分解するために体はエネルギーを消費する。 そっちの方でエネルギーを費やしていると、他の所に回せない。 多分、風邪を引きやすい体質と無縁ではないだろう。 この 「使えるエネルギーは有限」 という理解がとても大切だと思う。 私の飲み方を参考までにお話すると、お酒を飲んでいる間は水(お湯)を飲まない。 というのは食事しながらお酒も飲んでいるはずなのだが、水を飲めば飲むほど胃酸を薄めてしまうから。 これは良くない。 もうお酒はいっぱい、と思ったら、満足いくまでお湯を飲む。 最後にトイレに行き、そして寝る。 基本的に夜中にトイレに行くことはない。 たとえ多く飲んだ日の翌朝でも、顔がむくんでいることもなければ二日酔いもない。 もっとも体質は人それぞれなので、あくまでも以上は参考までに、という話。 水分摂取量はかなり個人差の幅があると思う。 鵜呑みにはしないで下さい。 しかしやはりまた筋肉の話をすると、筋トレを真面目にするようになったこの半年あまり、本当に夜尿回数が激減した。 飲酒量や飲み方は一切変えていない。 以前は飲みすぎると一晩に最多5回も行くことがあった。 筋トレをすると、なぜ、どうして、という因果関係は、私は知らない。 でもこういうことがある。 「私の体って**なんだよな」という方は是非、筋肉量を増やしてみられてはいかがだろうか。 思わぬ体の一面が出てくるということもある。

敷布団とコーディアル

コロナには過去に1回(か2回)感染しているのだが、今回は熱が出なかった。 熱が出ないと治るものも治らない。 ようやく回復の前夜になって体が熱を帯びてきて、それで抜けたように思う。 月曜日に発症して、木曜日の朝には治っていたのだから、大したものである。 一番辛かったのは背中と肩だった。 布団が薄くて硬かったため。 今回の発症でようやく分かった。 「この布団の硬さは良くない」と。 私の睡眠障害の全部とは言わないまでも、いくらかは布団の薄さに因っているに違いない。 敷布団を二枚重ねにしたら、非常に寝心地が良かった(当たり前…)。 そのせいで熱が出てくれたなんてことも、あるかもしれない。 全く、初歩的なことである。 病中はいつもと違ったものが欲しくなり、いつものものが欲しくなくなる。 珈琲は全く飲む気がせず、逆に コーディアル はよく飲んだ。 コーディアルについては、買ってみたは良いものの、なかなか飲み時がないなと思っていたのだが、期せずしてこうして出番となって私を助けてくれた。 こういう時の備えに、このような「おくすり」は常備しておいた方が良いなと改めて思った。

コロナでダウン

コロナを発症してしまった。 感染源は親で (後で明らかになった) 、訪ねていった姉二人共々、結構なお土産を頂いてしまった。 症状の出方にも遺伝があるのだろうか。 姉は体調は酷いが気分は上々、「たぶんお母さん譲りだ」と言っている。 私は体調はそれほど悪くもないのだが、気力が湧かなくなってしまう。 多分、父譲りである。 何もする気にならないので何もせず、無気力状態で一日を過ごしていると、どこからか反省が湧いてくる。 「あれはいけないことだったよなあ」とか、 「あの頃の自分は本当に未熟だった」とか。 体調不良にはこんな恩恵もあるのかもしれない。 日々、反省に努めてはいるつもりだけれど、生理的に好調な時は、その深堀りにも限度があるのかもしれない。 体調が悪いことで、コポコポと心の深部から反省材料が浮かんでくるようだ。 自虐的になったりする訳ではなく、ただ、 自分に対する理解が深まる から、きっとこれは恩恵なのだろう。 回復した。 回復したら四股(しこ)を踏みたくなったので、しばらく踏んでいた。 霧散していたエネルギーが戻ってきたのを感じた。 四股は骨盤底筋の活性化、体幹強化、安産、経血/尿漏れ防止などに非常に効果があります。 Youtube他でやり方を紹介してくれている人がいると思うので、興味のある人はご覧あれ。

時よ止まれ 2

「時よ止まれ」は、本当は「私よ、時の中で止まれ」と言うべきなのだろう。 私の好きな映画に 『スモーク』 という作品がある。 小説家ポール・オースターが脚本を務めた、一昔前の温かさが伝わってくる映画である。 煙草屋の主人オーギーは、10年間(だったか)、毎日同じ時間、同じ街角の写真を、同じアングル、同じカメラで取り続けている。 ある日、客の一人ポールがその写真アルバムを見せられる。 めくりながら、「どれも同じだ」と彼は思う。 何と感想を言ったものやら。 しかし煙草屋の主人は、もっとじっくり見るように促す。 情報として処理するのではなく、感じるのだ、と。 すると、どれも同じに見えた写真風景の中に、人々の日々の営みが息づき始める。 晴れの日があり、雨の日があり、上機嫌の日があり、不機嫌の日があり、いた人がいなくなり、新しい顔が現れる… そしてある写真に突き当たり、ポールは息を呑む。 街角はいつも同じなのではなかった。 いつも違っていたのだ。 一日として同じ日はなかった。 ただ自分ひとりが、どれも同じ日だと思い違えていたのだ。 私たちがなんと多くのものを見落としているか――、昨日もあり、だから明日も当然あるだろうと思って今日という日をおざなりにしているかということを、とても静かに深く、このシーンは伝えてくれて好きである。 繰り返す。 「時よ止まれ」は、本当は「私よ、時の中で止まれ」と言うべきなのだろう。 本当に難しいことだが、毎日そのことに挑んでいる。

時よ止まれ 1

時が止まってほしい…などと言うと、何やら重たげである。 しかし最近、「時が止まってほしい」と思うことがある。 子供の知性は日に日に進化していく。 興味の対象は変わっていく。 まどかはかつて、犬のおもちゃで飽きもせず遊んでいたものだった。 そのおもちゃには車輪がついており、前後に転がすとオルゴールが『となりのトトロ』のテーマを奏でる。 これをころころと床の上で動かしていたものだが、 今はもうそういう遊びはしない。 また以前には、お米やお水を、右のボウルから左のボウルに移し替えるという遊びを、これもまた飽きずにしていたし、階段を何度も上り下りした ものだった。 私たちにとって、階段は目的地に至るための手段でしかないが、 子供にとって階段はそれ自体が目的だった。 このような遊びには終わりがなく、その意味で無限の時間に属していた。 より成長した子供の知性は、終わりのある遊びを求めるようになる。 それはゴールであり、達成の喜びが、永遠の中に佇む喜びに取って代わるようになる。 そしてこの成長発展を更に続けていくと――現在の私たちになる。 変化のないことにはすぐに退屈してしまい、「で?」と次を促す。 「時が止まってほしい」と言っても、もちろん、子供の成長を望んでいないという意味ではない。 多分、本当のところは、何より自分自身に対してそう感じているのだ。 自分は犬のおもちゃを前に後ろに転がすだけで楽しめるような心を失っている。 そのことで大切な何かを見落としているからこそ、そのような在り方を今暫く見せてくれそうな子供に対して、時が止まってくれることを望んでいるのだろう。 沈む夕日に対して「あと少し」と願うようなものかもしれない。 「今している遊びを、楽しんでいるか?」 私はこの問いを、ピアノを弾く時に特に自分に投げかけている。 とても難しい。